放任清算主義
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今日の主流派経済学派の考えでは、政府は広く名目上の累計を安定した成長傾向に留めておくよう努力すべきだった(新しい古典派やマネタリストにとって、基準は名目マネーサプライである; ケインズ経済学派にとって、基準は名目総需要それ自体である)。名目マネーストックと総名目需要を急落しないよう保つために、恐慌期には、中央銀行は銀行機構に流動性を注入するべきであり、政府は税率を切り下げ消費を促進すべきであった。 連邦政府と連邦準備制度は1929年-1932年にこれを行わず、世界恐慌へと陥った。経済史家の間で一般的になってきている説では、連邦準備制度の政策決定者たちの清算主義理論への執着が破滅的な結果を招いたとされる。「清算主義」の存在が世界恐慌という宿痾と戦わない公共政策を決定する動機づけをするうえで重要な役割を果たした。フーヴァー大統領はこう書いている: 「 メロン財務長官に率いられた放任清算主義者たちが[...]政府は手を出さずにスランプ自己清算するのに任せるべきだと感じている。メロン氏はたった一つの方策を持っている: 「労働を清算せよ、株式を清算せよ、農家を清算せよ、不動産を清算せよ」[...]「それによってシステムから腐敗が排除される。高額の生命、高い生命は低下する。人々はより働き、より道徳的に生活するようになる。価値観が調節され、人々を楽しませることが競争力に劣る人々の破滅を防ぐ。」 」 「ケインジアン革命」以前は、このような清算主義理論が経済学者のとる一般的立場であり、フリードリヒ・ハイエク、ライオネル・ロビンズ、ヨーゼフ・シュンペーター、シーモア・ハリスといった経済学者によってこの理論が主張・発展させられた。清算主義者によれば恐慌は良薬である。恐慌の機能は、非生産的な使用から生産の要因(資本と労働)を解放するために、技術的発展のために時代遅れとなり失敗した投資・ビジネスを清算することだとされた。それらの要因は技術的に活発な経済分野に回された。彼らは1920年-1921年の恐慌に言及して、この恐慌は1920年代後半の繁栄の基礎を築いたと主張した。彼らは(1921年に既に実行されていた)デフレ政策をとることを要求し、この政策は資本・労働力を非生産的な活動から解放して新たな経済的バブルの基礎を築くのに使うものだと主張した。経済の自己調節が大量の倒産を起こすとしても、そうなるのに任せておくべきだと清算主義者たちは主張した。というのは、聖餐過程を延期することは徒に社会的コストを増大させるだけだと彼らが考えていたからである。シュンペーターの著作によれば、それは 「 [...]回復は、ひとりでに起こったときにのみ健全であると私たちに信じさせてくれる。人工的な刺激のみによるいかなる復活も、十分に恐慌の働きが行き届かない部分を残し、環境不適応だった部分が消化され切らずに残った部分に対してそれ自体の新たな環境不適応が加えられ、それがまた生産を必要とするようになり、後々に別の[より悪い)危機によって商業を脅かすのである。 」 清算主義者の期待に反して、株式資本の大部分は世界恐慌一年目に転換・消去されなかった。オリヴィエ・ブランチャードとローレンス・サマーズの研究によれば、1933年までに不景気によって1924年以前のレベルの資本蓄積が起こった。 ジョン・メイナード・ケインズやミルトン・フリードマンといった経済学者は、清算主義理論から帰結する放置策が世界恐慌の深刻化に資したと主張している。ケインズは嘲笑のレトリックによって、ハイエク、ロビンズ、シュンペーターを以下のように表すことで清算主義思想の信用を失わせようとした。 「 [...]禁欲的・清教徒的な心根が[世界恐慌を][...]彼らの言うところの「過膨張」にたいする不可避にして望ましい報いとして扱う[...]。それは、過剰な繁栄が続く全体的な倒産によってバランスがとられなかったときに、不正な富に対して起こる勝利だと彼らは感じている。自分たちが丁重にも「延期された清算」と呼ぶものが自分たちを正してくれることを望むと彼らは述べている。彼らが我々に述べるところによると、清算は未だ完了していない。しかしやがては完了する。そして清算が完了するのに十分な時間がたてば、全ては再び我々にとって良くなる[...] 」 ミルトン・フリードマンは、こういった「危険なナンセンス」はシカゴ大学では決して教えられていないこと、なぜ(このナンセンスが教えられている)ハーヴァードで若く明敏な経済学者達が自分たちの師のマクロ経済学を否定してケインジアンに転向するのかを自分は分かっていること、を述べた。彼はこう書いている: 「 私が思うにオーストリア学派の景気循環理論は世界に大きな悪影響をもたらした。あなたがキー・ポイントたる1930年代に戻れば、ロンドンにオーストリア学派がはびこっているのが見られて、ハイエクやライオネル・ロビンズに世界が景気の底にあるのを放置しろと言われるだろう。あなたはそれに従って景気が自己回復するに任せることになるだろう。それに対して何かをすることは許されない。何をしてもより悪くなるだけなのだから。[...]私が思うにこの種の放置策に焚き付けられて、イギリスでもアメリカでも彼らは害を為したのである。 」 経済学者ローレンス・H・ホワイトは、ハイエクとロビンズが1930年代初期のデフレ政策に積極的には反対しなかったことを認めたが、それにも関わらず、ハイエクが清算主義の唱道者であったというミルトン・フリードマン、ジェームズ・ブラッドフォード・デロングその他の主張に挑戦した。ハイエクとロビンズの景気循環理論(後に今日知られているようなオーストリア景気循環理論に発展する)は実はマネーサプライの強い引き締めを許すような金融政策とは矛盾するものだったとホワイトは主張する。それにもかかわらず、世界恐慌の際にはハイエクは「1929年-1932年の強いデフレと名目収入の萎縮に曖昧な態度をとった」とホワイトは述べている。1975年の講話で、ハイエクは自身が40年以上前に中央銀行のデフレ政策に反対しなかったことの非を認め、曖昧な理由をとったことの理由を説明した: 「当時私はある程度短期間のデフレの過程は、経済が機能することと相容れないと私が考えていた賃金の硬直性を破壊すると信じていた。」 その三年後、ハイエクは世界恐慌初期の連邦の突然のマネーサプライの引き締めと連邦が銀行に流動性を供給するのに失敗したことを強く批判した: 「 「一たび急落が起こると連邦準備制度が愚かなデフレ政策に走ったという点に関して私はミルトン・フリードマンに同意する。私は単にインフレに反対しているのではなく、デフレにも反対している。だから、もう一度、間違って計画された金融政策が恐慌を引き延ばす。 」
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