放ち亀・放ち鳥等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:00 UTC 版)
放生会には放ち亀や放ち鳥などの行事が行われる。放生会で亀や魚を逃がすために寺院等に設けられた池を放生池という。 かつては寺社近隣の河川で行われることもあり、亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売が行われていた。現在の日本では行われていないが、台湾、タイ、インドでは今でも放生用に亀や魚、蛙、貝、鳥などを売る店・業者が存在する。タイ語では人助けを含めて徳を富む行為として「タンブン」と呼ばれる。タイでは放す生き物によりご利益が異なると信じられている。鰻は金運、亀は長寿、小鳥は幸運・幸福などである。 江戸時代の放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強く、文化4年(1807年)には富岡八幡宮の放生会例大祭に集まった参拝客の重みで永代橋が崩落するという事故も記録されている。 小林一茶の「放し亀 蚤も序(ついで)に とばす也」は亀の放生を詠んだ句である。 歌川広重の『名所江戸百景 深川万年橋』は亀の放生を描いた絵である。 落語『佃祭』には恩が帰るという話の本筋に関連して亀の放生に触れた脚本も有る。 落語『後生鰻』は鰻の放生を話の端緒としており、別題を『放生会』という。 天正最上の乱において、米沢城の最上義光を包囲した最上義守たちは、総攻撃を仕掛ける予定であったが、義守の側についていた伊達輝宗は放生会を理由に軍勢を引き上げてしまい、総攻撃は中止となった事がある。伊達は既に亘理元宗を通じて、優勢であった義光との和議を進めており、放生会を口実に軍勢を引き上げたと見られている。その後、義光有利の和議が成立し、天正最上の乱は終結した。
※この「放ち亀・放ち鳥等」の解説は、「放生会」の解説の一部です。
「放ち亀・放ち鳥等」を含む「放生会」の記事については、「放生会」の概要を参照ください。
- 放ち亀・放ち鳥等のページへのリンク