後世人よりの評価
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沈約『宋書』・李延寿『南史』:沈約は宋書武帝紀のまとめとして、「魏や晋はその成り立ちより危うい権威であったが、劉裕は寒微の出であるにも関わらず大いに武威を示して地位を築いた。前二者が名目によって成り立ったのに対し、宋は実あるものとして成り立ったと言える」と記した。李延寿は沈約の論に従いつつも、後継体制が脆弱であったことを嘆いている。 唐の虞世南『帝王略論』・南朝梁の裴子野:裴子野は劉裕について「良吏としての才は曹操・司馬懿に並ぶが、その枠に収まる人物ではない」とした。この論を受け虞世南は沈約と同様の論を展開した後、「前代の資産を持たず皇帝となった劉裕は、その闊達さにおいては劉邦の、その開かれた胸襟の広さについては劉秀の気風を備えていた」と結論づけた。 南朝梁の蕭方等『三十国春秋』:桓玄配下の王謐を救ったことと刁逵を殺害したこととを引き合いに出し「恩に報い、怨みに報復するとはいえ、やや狭量なのではないか」と評している。 唐(武周)の朱敬則『宋武帝論』:当時劉裕が倒したのが強敵とは呼べないこと、宋の功臣の子孫が貴顕として残っていないこと、関中で徳にもとる振る舞い(滅ぼした後秦の公主を妾として寵愛した)をしたこと、長安を早期に失陥したことなどから、その君子としての徳が疑問視されていたと紹介する。朱敬則はこれらの論に概ね同意しつつ、江南出身の劉裕にとり関中は片田舎であり、積極的に保持すべき対象ではなかったと語り、「時流に巧みに乗ることのできる智者ではあった」と評した。 唐の杜牧:隋の楊堅と劉裕を比較し、楊堅は武では劉裕にまるで敵いこそしないものの、山東の地を獲得し得たがゆえに覇者止まりであった劉裕とは違い王となることが出来た、と語る。 唐の張謂『宋武受命壇記』:晋の安帝を助けて晋の武威を高めた功績そのものは殷の伊尹や周公旦にも並びうる功績ではあったとしながら、最終的に簒奪の大逆をなしたがために劉宋は国運を全うできなかったのだ、と語る。 北宋の蘇轍『歴代論』:その武および智が卓絶していたことは認めつつも、関中を重要視しないままで禅譲を求めたことを仁ならざる振舞いである、としている。その上で知恵がいくらあっても仁に欠けていれば人々には敬われない、と孔子の句を引用し、批判している。 北宋の何去非『何博士備論』:「志」、すなわち関中の維持を重んじなかった劉裕の振る舞いを批判こそするものの、その振る舞いは過日に南燕征伐ののち盧循によって亡国の危機にさらされたトラウマが尾を引いていた、と分析する。ただし、それによって天下統一の機は失われてしまったのだ、とする。 北宋の司馬光『資治通鑑』:記述そのものにおいては劉裕の個人的武勇をよりドラマティックになるよう編集されている(例えば『宋書』で「會遇賊至,眾數千人,高祖便進與戰。所將人多死,而戰意方厲,手奮長刀,所殺傷甚眾。」とされている部分が『資治通鑑』では「遇賊數千人,即迎撃之,從者皆死,裕墜岸下。賊臨岸欲下,裕奮長刀仰斫殺數人,乃得登岸,仍大呼逐之,賊皆走,裕所殺傷甚眾。」とされている)。ただし評論としては南燕での虐殺行為や関中の早期失陥を批判している。 南宋の曾先之『十八史略』:同じ劉姓の王である劉邦と同じ「蛇神を傷つけるエピソード」が収録されている。ただし劉邦が配下のために蛇を傷つけるのに対し、劉裕はあくまで自らの都合のために蛇を傷つけている。 南宋の辛棄疾『永遇楽』:呉の過去の英雄を懐かしむ詩において孫権と劉裕を並べ讃え、「重装騎兵が地を轟かせ、万里を飲み込まんとする虎かの如き気勢を発する、かの勇将」と、五代十国時代後唐の人物李習吉の伝に表れる言葉を引いて讃えている。 南宋の葉適『習学記』:劉裕は不世出の名将であるが、長安をまともに確保できないままであったこと、簒奪をなしたこと、旧晋帝を殺害したこと、いずれにも恥じ入ることがなかった、と厳しく糾弾する。一方でその正常を誤らせた原因が側近の劉穆之にある、と説く。 元の胡三省『資治通鑑音注』:資治通鑑における恭帝殺害のシーンにおいて、「これ以後、皇位を譲った君主が生き延びられることがまれになってしまった」と述介している。 明の孫承恩『文簡集』:磐石とは言えない立場からそのたぐいまれな武力で立身し清廉にして厳正な態度を貫いた、皇帝として相応しき人物であると述べている。 明の李卓吾『李温陵集』:劉裕の功績は確かなものであったにもかかわらず、皇帝殺害という大罪を犯したためその罪は子孫にめぐった、と批判する。 明の王夫之『読通鑑論』:中華民族を長らく苦しめ続けてきた夷狄の国、南燕後秦を滅ぼしてみせる武威を示した劉裕について、原則としては激賞している。「漢以後、唐に至るまで、それでも中華の主と呼べたのはこの劉宋くらいであろう」とまで讃えるほどである。ただし長安の失陥、簒奪については失点であるとし、中でも簒奪後の旧帝殺害についてはその大罪の甚だしきものである、と糾弾する。 清の方苞『宋武帝論』:劉裕が曹丕や司馬炎に比べて資産薄く、すでに年老いておりながらも子どもたちが未だ幼かったため満足な後継体制も確保できない状態であった事を指摘する。これらを補うために皇帝殺害の凶行に及び、自らのもとに害毒を引き込んだ、とする。「智詐はやがて毒となる」と、その論の結びにて述べる。 清の乾隆帝:評鑑闡要においては劉裕の武威の卓抜ぶりを讃えるも、クーデター成功直後に自らの名のもとに後秦より領土返還を求めたあたりに既に君主を君主と思わぬ姿勢が見え隠れしている、と語る。 御製楽善堂全集の東晋総論においては、その卓抜した武を国のために用いず、簒奪に用いたことが後世の君子らよりの嘆息を受けていると評する。 蔡東藩『南北史演義』:演義もの小説ではあるが、劉裕の登場する各話末尾で評価を加える。そのずば抜けた文武の能力をはじめから簒奪に照準を合わせて運用していたと評され、邪悪な策謀をめぐらせた末子孫が破滅したのだ、と批判されている。
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