後世人よりの評価とは? わかりやすく解説

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後世人よりの評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)

劉裕」の記事における「後世人よりの評価」の解説

沈約『宋書』李延寿『南史』沈約宋書武帝紀のまとめとして、「魏や晋はその成り立ちより危うい権威であったが、劉裕は寒微の出であるにも関わらず大い武威示して地位築いた。前二者名目によって成り立ったのに対し、宋は実あるものとして成り立ったと言える」と記した李延寿沈約の論に従いつつも、後継体制脆弱であったことを嘆いている。 唐の虞世南帝王略論』・南朝梁裴子野裴子野劉裕について「良吏としての才は曹操司馬懿に並ぶが、そのに収まる人物ではない」とした。この論を受け虞世南沈約同様の論を展開した後、「前代資産持たず皇帝となった劉裕は、その闊達においては劉邦の、その開かれた胸襟広さについては劉秀気風備えていた」と結論づけた。 南朝梁蕭方等三十春秋』:桓玄配下の王謐を救ったことと刁逵を殺害したこととを引き合い出し「恩に報い怨み報復するとはいえ、やや狭量なではないか」と評している。 唐(武周)の朱敬則『宋武帝論』:当時劉裕倒したのが強敵とは呼べないこと、宋の功臣の子孫が貴顕として残っていないこと、関中で徳にもとる振る舞い滅ぼした後秦公主を妾として寵愛した)をしたこと、長安早期失陥したことなどから、その君子としての徳が疑問視されていたと紹介する朱敬則はこれらの論に概ね同意しつつ、江南出身劉裕にとり関中片田舎であり、積極的に保持すべき対象ではなかったと語り、「時流巧みに乗ることのできる智者ではあった」と評した。 唐の杜牧:隋の楊堅劉裕比較し楊堅は武では劉裕にまるで敵いこそしないものの、山東の地を獲得し得たがゆえに覇者止まりであった劉裕とは違い王となることが出来た、と語る。 唐の張謂『宋武受命壇記』:晋の安帝助けて晋の武威高めた功績そのものは殷の伊尹周公旦にも並びうる功績ではあったとしながら最終的に簒奪大逆をなしたがために劉宋国運全うできなかったのだ、と語る。 北宋蘇轍歴代論』:その武および智が卓絶していたことは認めつつも、関中重要視しないままで禅譲求めたことを仁ならざる振舞いである、としている。その上で知恵がいくらあっても仁に欠けていれば人々には敬われない、と孔子の句を引用し批判している。 北宋の何去非『何博士備論』:「志」、すなわち関中維持重んじなかった劉裕振る舞い批判こそするものの、その振る舞い過日南燕征伐ののち盧循によって亡国危機さらされトラウマ尾を引いていた、と分析する。ただし、それによって天下統一の機は失われてしまったのだ、とする。 北宋司馬光資治通鑑』:記述そのものにおいては劉裕個人的武勇をよりドラマティックになるよう編集されている(例え『宋書』で「會遇賊至,眾數千人,高祖便進與戰。所將人多死,而戰意方厲,手奮長刀,所殺傷甚眾。」とされている部分が『資治通鑑』では「遇賊數千人,即迎撃之,從者皆死,裕墜岸下。賊臨岸欲下,裕奮長刀仰斫殺數人,乃得登岸,仍大呼逐之,賊皆走,裕所殺傷甚眾。」とされている)。ただし評論としては南燕での虐殺行為関中早期失陥批判している。 南宋曾先之十八史略』:同じ劉姓の王である劉邦と同じ「蛇神を傷つけるエピソード」が収録されている。ただし劉邦配下のためにを傷つけるのに対し劉裕はあくまで自らの都合のためにを傷つけている。 南宋辛棄疾『永遇楽』:呉の過去英雄懐かしむ詩において孫権劉裕並べ讃え、「重装騎兵が地を轟かせ万里飲み込まんとする虎かの如き気勢発する、かの勇将」と、五代十国時代後唐人物習吉の伝に表れる言葉引いて讃えている。 南宋葉適習学記』:劉裕不世出名将であるが、長安まともに確保できないままであったこと、簒奪をなしたこと、旧晋帝殺害したこと、いずれにも恥じ入ることがなかった、と厳しく糾弾する一方でその正常を誤らせた原因側近劉穆之にある、と説く。 元の胡三省資治通鑑音注』:資治通鑑における恭帝殺害シーンにおいて、「これ以後皇位譲った君主生き延びられることがまれになってしまった」と述介している。 明の孫承恩『文簡集』:磐石とは言えない立場からそのたぐいまれ武力立身し清廉にして厳正な態度貫いた皇帝として相応し人物であると述べている。 明の李卓吾温陵集』:劉裕功績確かなものであったにもかかわらず皇帝殺害という大罪犯したためその罪は子孫めぐった、と批判する。 明の王夫之『読通鑑論』:中華民族長らく苦しめ続けてきた夷狄の国、南燕後秦滅ぼしてみせる武威示した劉裕について、原則として激賞している。「漢以後、唐に至るまで、それでも中華の主と呼べたのはこの劉宋くらいであろう」とまで讃えるほどである。ただし長安失陥簒奪については失点であるとし、中でも簒奪後の旧帝殺害についてはその大罪甚だしきのである、と糾弾する。 清の方苞『宋武帝論』:劉裕曹丕司馬炎比べて資産薄く、すでに年老いておりながらも子どもたち未だ幼かったため満足な後継体制確保できない状態であった事を指摘する。これらを補うために皇帝殺害凶行に及び、自らのもとに害毒引き込んだ、とする。「智詐はやがて毒となる」と、その論の結びにて述べる。 清の乾隆帝:評鑑闡要においては劉裕武威卓抜ぶりを讃えるも、クーデター成功直後に自らの名のもとに後秦より領土返還求めたあたりに既に君主君主思わぬ姿勢見え隠れしている、と語る。 御製善堂全集東晋総論においては、その卓抜した武を国のために用いず簒奪用いたことが後世君子らよりの嘆息受けていると評する。 蔡東藩『南北演義』:演義もの小説ではあるが、劉裕登場する各話末尾評価加える。そのずば抜けた文武能力はじめから簒奪照準合わせて運用していたと評され邪悪な策謀めぐらせ末子孫が破滅したのだ、と批判されている。

※この「後世人よりの評価」の解説は、「劉裕」の解説の一部です。
「後世人よりの評価」を含む「劉裕」の記事については、「劉裕」の概要を参照ください。

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