帰化人の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 18:08 UTC 版)
帰化人には社会的地位のあった人々だけでなく、一般庶民や戦争捕虜なども多く含まれていた。帰化人の大半は中国系であり、また朝鮮からの帰化人の中にも、実際は中国人が多数含まれている。関晃は「百済、新羅、任那(加羅)などの朝鮮韓国各地から来た人々であるが、その中には前漢以来朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫で各地に分散していたものもかなり含まれており、そのもたらした文化も主として漢・魏を源流とする大陸文化だったとみられる」と述べている。八幡和郎は、「文明を伝えた帰化人は百済から来てもほとんど漢族…楽浪郡などの残党の漢人たちが日本に文化と技術を持って来た…王仁博士と言えば、応神天皇の時代に百済から派遣されて来日し、本格的な文字伝来のきっかけとなった人です。そこで、子孫が住んだ大阪府枚方市では、日韓友好の象徴にしようとしています。しかし、その名からも分かる通り、中国人です。漢の高祖の子孫で、その祖父の代から百済に住んでいました。漢族の王仁博士が漢字を日本に伝えたのが日韓交流のシンボルというのは、在日韓国人の3世がアメリカでキムチを教えたら、日米友好の象徴と言うような話で無理があります。平安時代の上流階級の戸籍というべき『新撰姓氏録』には、『諸蕃』と呼ばれる帰化人系の士族が全体の2割ほどを占めています。統一国家成立、つまり、仲哀天皇と神功皇后が北九州を版図に入れてからあとに、日本にやってきた人たちを帰化人ととらえて分類していたようです。…つまり、帰化人の過半数が漢族でした。大陸から直接に渡ってきた人もいたでしょうが、多くが百済経由でした。秦氏、大蔵氏、止利仏師など皆そうです。天台宗の開祖である最澄もそうです。この時代には、漢文の読み書きがよくできるのは、日本でも半島でもだいたい漢族に限られていましたし、高度の技術を持つ人たちも同じでした」と述べている。 大化前代に朝鮮に帰化していた日本人帰化人もいる。大化前代に朝鮮に帰化していた日本人帰化人の例は『日本書紀』にみとめられ、神亀元年二月四日の詔によって官職を有する渡来系氏族にカバネ秩序組み入れを目した賜姓がなされたが、その際に賜姓された物部用善、久米奈保麻呂らは、明らかな朝鮮帰化の日系氏族帰国者とみられ、百済滅亡時の亡命者とともに、官職により供奉をしてきた「韓人ども」(『続日本紀』神亀元年二月四日条詔)として、詔でその貢献を賞されて賜姓された。神亀元年ごろは日系帰国者も「韓人ども」に対する詔の対象として厳密な境を敷いていなかった。 西文氏のもとで文筆・記録の職掌についた史部の一族と想定される田辺史氏なども、百済に帰化した日本人(百済帰化の日系氏族帰国者)とみられ、『日本書紀弘仁私記』序に載る弘仁年間流布した民間の氏族書『諸藩雑姓記』に田辺史氏、上毛野公らが載っていることに対して、『日本書紀弘仁私記』序では「己等祖是貴国将軍上野公竹合也」と載せ、祖が日本人であり『諸藩雑姓記』に載せて諸蕃とすることは誤りとする注を付し、『日本書紀弘仁私記』は、祖が日本人であることを根拠とした日系人という考え方を示している。 浜田耕策は、「朝鮮半島からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られるように、この相互の移住民を国家の形成史のなかでどのように評価するかの問題にも発展して新たに考察される課題であろう」と指摘している。 網野善彦は、「百済人はたくさん日本列島に来ていたわけだし、こっちからもたくさん行ってると思いますよ」と述べている。
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