帰化人の出身経路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 18:08 UTC 版)
宮脇淳子は、「朝鮮半島の川は全て『江』と表記されるということです。シナ大陸では、黄河は『河』で、揚子江すなわち長江は『江』です。つまり、南部の川は『江』で、北部は『河』と表す。ということは、シナ大陸の北と南では言葉が違っていたということであり、朝鮮半島に最初に入った漢字を使う人々は、海を経由して南から入った可能性が高いと考えられるわけです。その理由として、燕国の東側は拓けるのが遅かったことが挙げられます。その地域一帯は北方騎馬民の勢力圏だから、商隊はすぐに襲われるので安全なルートじゃない。高句麗に入っても靺鞨などが蟠踞しています。そこで海を利用するわけですが、同様に漢字を使う人たちは、日本列島にも東シナ海経由で来た可能性が高いのです。朝鮮半島から日本への渡来人は、いわば第二派だったという説が、現在、かなり有力になっています」と指摘している。 八幡和郎は、「始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが『漢』を出自とすると名乗っていたのです。…百済や高句麗の支配層は、もともと北方系の夫余族で、朝鮮半島に南下してきたのは、日本に稲作が伝わった時代よりかなりあとです。いずれにしても、弥生時代に始まったころの朝鮮半島南部の人口がそれほど多かったとは思えません。それになにより、日本列島に稲作をもたらしたのが北方のアルタイ系の人々だと考えるのは突飛すぎます。それより、中国での戦国の争乱で故郷を離れざるを得なくなった、あるいは、開発余地が少なくなった江南の地から稲作技術とともに新天地を求めて東へ向かった人々がかなりいたわけで、その人々が日本人の主たる父祖と見るべきです。以上のような話を朝鮮半島における農業発展史から説明すると、半島における農業の黎明期には、遼東半島方面から畑作や稲でも陸稲など華北的な農業が先行して導入されていきました。一方、水田による南方的な稲作も3000年くらい前から行われ始めていたようですが大きくは発展しませんでした。日本でも縄文時代末期から稲作の痕跡はあり、それは、朝鮮半島から伝えられたものかもしれませんが、いわゆる弥生時代の始まりと言われるような革命的変化は、通過地として半島沿岸地方を経たとはいえ、中国の江南地方からの技術、種籾、移民によるものとみるべきです」と指摘している。
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