崩壊と民主化
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1973年、オイルショックが始まるとギリシャはその影響で2%のマイナス成長に転落、インフレ率が上昇、3月アテネ大学では学生が蜂起し、法学部を占拠した。さらに5月、海軍が蜂起、これは失敗に終わり、駆逐艦ヴェロス (en) がイタリアへ脱出した。パパドプロスは海軍の蜂起に国王コンスタンディノス2世が関わったとして非難、1973年7月29日、国王の廃位と『大統領制議会制度共和国』の宣言を行った上で国民投票を行い、唯一の立候補者だったパパドプロスは大統領に選出された。国章には軍事政権が象徴としていた不死鳥が描かれ、首相にはスピリドン・マルケジニスが就任したが、パパドプロスが全権を掌握する状況に変化は無かった。こうして形ながら民政移管の体裁を取った上で起死回生を狙って全国の戒厳令を一時停止、大規模な恩赦を行なった上で1974年に選挙を行う事をパパドプロスは公約した。 これに対して11月、学生らが大規模なデモを起こし、アテネ工科大学を占拠、さらに市民までもが参加したが、これは陸軍は戦車を投入してアテネ工科大学へ突入して鎮圧、700名が逮捕され、負傷者数百名、死者80名がでる流血の惨事になった。 この事件はギリシャ軍高級将校らの反発を招くこととなった。こと形式的な民主化に反対し軍事政権の継続を望んだ、軍事治安警察長官ディミトリオス・イオアニディス准将など一部の将校はパパドプロス打倒を決意し、11月25日にクーデターを起こしパパドプロスを拘束・大統領職から追放した。後任の大統領にはフェドン・キジキス中将が、首相にはアダマンティオス・アンドルツォプロスがそれぞれ就任したものの、彼らはイオアニディスの傀儡でしかなかった。 イオアニディスはギリシャ全土への戒厳令を復活させ反対派への抑圧が再び強まる事となった。しかし、それまでイスラエルとアラブ諸国の間で戦争が行なわれていたためにギリシャの体制が維持されることを望むアメリカの意向で国内的には小康状態であったが、1974年3月、イギリスで労働党による内閣が発足するとギリシャの軍事政権に対する批判が開始された。 一方、ギリシャとトルコは、1964年に発生したキプロス紛争以来関係が悪化していたところ何とか小康状態に落ち着いていた。しかし1973年、10月、トラキア西部において少数民族と化していたムスリム問題と11月、ギリシャが石油を探査していたエーゲ海東部の大陸棚に対してトルコ政府がトルコ石油公社へ石油採掘権を付与したことで悪化し始めた。さらに1974年1月にタソス島沖合いで石油、天然ガスが発見されたことでこれは一気に外交問題と発展、軍事衝突の危機にまで発展したが、これはNATOの仲裁により軍事衝突の危機は避けられた 。 イオアニディスはこれに対し、キプロスを威嚇した。キプロスはこの威嚇に抗議したが、イオアニディスはキプロスのギリシア系民兵であるEOKAを支援し、クーデターによってマカリオス政権を打倒させた。マカリオスはすんでのところで命拾いはしたものの亡命し、キプロスで1960年に制定された憲法で否定されていたエノシス(全キプロスのギリシャへの統合)が行われる可能性を恐れたトルコは、7月20日にトルコ系住民保護を名目にキプロスへ侵攻、北キプロス・トルコ共和国の樹立を後押しした。 「キプロス紛争」も参照 ギリシャもこれに対応して動員を行い、両国はいつ戦火を交えてもおかしくない状態と化したが、実際に戦闘を行う筈の海軍と空軍が攻撃命令を拒否した上にアメリカ政府も見放し国際社会にも同調する国はなかった。そのため、イオアニディスが統制していた陸軍と軍事治安警察は孤立する格好となり、ギジキス大統領と軍首脳、さらにステファノプロスやカネロプロス、マルケジニスなど首相経験者や諸政党の首脳とで会合した結果、カラマンリス元首相を復帰させて民主化と民政移管が決定した。1974年7月24日午前4時、亡命していたフランスから11年振りにギリシャへ帰国したカラマンリスは満場を埋め尽くした歓喜の声が響く中、首相就任の宣誓を行った 。 そして、1974年12月、君主制の可否を問う国民投票が行われ、国民の7割が君主制の拒否を示し、ギリシャ王国は事実上、消滅することとなり、ギリシャ共和国(ギリシャ第三共和政)が成立することとなった。この民政移管をギリシャでは「メタポリテフシ(ギリシア語: Μεταπολίτευση)」と呼ぶ。
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