岡津道
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泉区岡津町から踊場周辺を経由して汲沢を南西方向に進み、宇田川近くまで出た後、深谷専念寺方面、さらに藤沢、小田原へと続く道が「岡津道」、あるいは「藤沢道」、「小田原道」とも呼ばれる道であり、現在は踊場郵便局や戸塚高校、汲沢小学校が沿道に並ぶ。 鎌倉時代初期、岡津は鶴岡八幡宮へ寄進され、武士が地頭として徴税を含む支配の全権を握っていたと推定されるが、文永7年(1270年)、徴税のあり方をめぐり、岡津町島田谷の居館に居住していた地頭、甲斐三郎左衛門尉為成と八幡宮側が対立した末、「八幡宮側が岡津へ使者を出して作の良否を確かめた上で年貢を決め」るとの条件を含む案で決着を見る。小田原北条氏時代、岡津を支配したのは太田大膳亮であるが、その所領は武蔵国、相模国にまたがるかたちで現在の埼玉県深谷市から平塚市にまで及んでおり、北条氏側の有力な武士の一人であったとも推定されているが、大膳亮自身は最大の領地であった江戸芝崎(現在の東京都千代田区文京区の一部)に居住していたとされる。 徳川家康によって江戸幕府が開かれた際、各地の代官を統括する立場にあったのが代官頭と呼ばれる職であり、相模国9郡のうち、鎌倉、高座、淘綾、大住、愛甲、津久井の6郡では、彦坂元正(元成)がその役を担った。元正は、代官頭の中でも有力であり、『戸塚の歴史』は「将軍の手となり足となって、諸制度の整備に手腕を発揮し、幕府の基礎固めに協力した」と評する。元正が手掛けたものに東海道、中山道の整備および伝馬の制の確立などがあったが、元正自身、後に戸塚宿本陣となる沢辺宗三(恒久)の妹を妻に迎えていたという事情もあり、当初、正式な宿場としての選に漏れた戸塚が、宿場町としての地位を手に入れる過程に深く関わったという。『東照宮御実紀』慶長9年11月2日の項には「彦坂小刑部元正より戸塚の駅に。神奈川、藤沢と同じく駅馬のことつかうまつるべしと令す。」とある。 元正が居を構えたのが岡津村鷹匠町の岡津陣屋であり、現在の横浜市泉区岡津小学校付近にあたる。『新編相模国風土記稿』岡津村の項には「彦坂小刑部元正陣屋跡」と題された記述があり、そのなかで「元正は天正一八年関東御入国の後、近郷の代官職を奉はれり、其頃居住の陣屋なり」と説明されている。元正はこの陣屋を拠点としつつ「各地に在地土豪の系譜をひく手代をおいて、民政の実務を取らせていた」と『戸塚の歴史』は解説する。岡津はまた、江戸から片道一日の距離に位置し「鎌倉および三浦半島一帯と武蔵国南部(久良岐郡など)の抑えになる要衝」としての玉縄城にも近い。鎌倉時代には甲斐三郎為成、小田原北条氏時代には太田大膳亮が岡津を支配していたこともあり、元正の存在と合わせて、岡津道が「政治的に重要な道」であったとも指摘されている。 『戸塚の歴史』は、元正が「戸塚を中心とした地域では善政を布き、岡津陣屋には岡津まいりをする人もあってたいへん賑わった」と挙げるとともに、陣屋を設ける以上は交通の便の良さが考慮されたであろうことから、「岡津みちとか藤沢みちと呼ばれる尾根道がかつての街道であって、今の東海道よりもずっと西に街道があったかも知れない」と述べ、岡津道の重要性を指摘する一方、現在の東海道の道筋が整備される以前、「保土ヶ谷から藤沢へ向かう際は、弘明寺経由で本郷台から大船の玉縄城前を通るのがメインルート」であったともいわれる。 元正は慶長11年(1606年)、伊豆での不正行為を理由に失脚するが、これについては元正が「関東入部直後に、いわば仮の形で支配形態を作り、代官頭として活躍したが、幕府の体制が固まり、本格的な政治体制に組み替える際には、逆に不要な人材になっていった」と考察されている。岡津はその後、旗本黒田直綱のもとにおかれ、依然として「政治的にも人々の暮らしの面でも重要な役割を果たしていた」と同時に、岡津道が、大名行列の通過などで戸塚宿の通行に支障をきたした際の裏道として機能したと指摘されている。 戸塚高校と汲沢小学校との間の小さな谷の北側の坂を腰抜け坂と呼び、岡津陣屋近くの刑場が見えたために罪人が腰を抜かしたことから名づけられたとの説があるが、刑場に関しては『皇国地誌』の岡津村の項の「代官屋敷址」と題された文中に「此処より南方に隔ること三町五間にして旧仕置場と称す地あり。その内に二間四面の凹あり。往古罪人を刑伐して投込し穴と呼ぶ。」とあるように、踊場駅付近よりさらに数キロメートル遠方に位置する窪地であった。坂の勾配のため荷物を運ぶのに苦労をしたのが腰抜け坂との名称の由来であるとする説もある。 汲沢周辺の岡津道沿いには、踊場の供養塔、ログハウス前の祠、戸塚高校南側マンション敷地内の祠、、鳩糞稲荷(岡津道は古くは汲沢小学校の校庭内を通過した)、大丸祭壇の道標、汲沢交差点の大山不動、中村三差路バス停前の子育て地蔵等が残されている。
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