岡沢吉夫との親交とは? わかりやすく解説

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岡沢吉夫との親交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:38 UTC 版)

藤田嗣治」の記事における「岡沢吉夫との親交」の解説

1944年春八王子付近疎開先を探していた藤田岡沢吉夫訪問したこれまで二人交流あったか不明だが、以後親しく交流し1945年8月八王子空襲では、藤田をはじめ新制作派協会(現・新制作協会)の画家たち岡沢安否気遣い見舞い訪れた1947年2月には岡沢一家招き岡沢の娘・由美子誕生日お祝いとして「少女像」をプレゼントしている。藤田岡沢の子由美子と伸夫を心から可愛がっていたといい、この日も楽しげに遊ぶ姿を岡沢撮影している。 1949年3月日本去った藤田は、いつどの飛行機日本を発つかは誰にも言わず秘密にしていたが、一度目の査証申請時にすでに永遠に日本を去る決意岡沢語っている。のちに岡沢送った手紙には「(略)本当に岡沢さんにハお世話になった。疎開前後東京の住さんの処へ移った時又小竹町移った時は真裸になって天井裏入って電気をみてくだすった等とてもとても言葉に現はせぬ程親切にして下すつて其のご恩忘れた事ハありませんでした日本を立つ時いろいろ邪魔が入ったりして世間煩わしいのでだまつて君に御暇乞もせずに立つた事が大に今更口惜しいような気がして心残りになったと二人で今頃つくづく噂し次第です 何うか悪しからず恩知らず人間と思はずに居て下さい(略)」と思い綴っている。以後手紙での親交続き1955年藤田レジオン・ドヌール勲章オフィシエ受勲した際には、受勲喜び同時に複雑な心情語っている。 1966年3月、「全日本スキー連盟オーストリア・フランス国立スキー学校旅行」の団長としてシャモニー訪れていた岡沢は、娘・由美子の手配でヴィリエ・ル・バクルで藤田再会している。藤田訪ねてきた岡沢に「キリスト頭部デッサン」と版画贈った二人藤田1968年1月に息を引き取るまで幾度も手紙絵葉書送っている。

※この「岡沢吉夫との親交」の解説は、「藤田嗣治」の解説の一部です。
「岡沢吉夫との親交」を含む「藤田嗣治」の記事については、「藤田嗣治」の概要を参照ください。

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