岡沢吉夫との親交
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1944年春、八王子付近で疎開先を探していた藤田は岡沢吉夫を訪問した。これまでに二人の交流があったかは不明だが、以後は親しく交流し、1945年8月の八王子空襲では、藤田をはじめ新制作派協会(現・新制作協会)の画家たちが岡沢の安否を気遣い見舞いに訪れた。 1947年2月には岡沢一家を招き、岡沢の娘・由美子に誕生日のお祝いとして「少女像」をプレゼントしている。藤田は岡沢の子・由美子と伸夫を心から可愛がっていたといい、この日も楽しげに遊ぶ姿を岡沢が撮影している。 1949年3月に日本を去った藤田は、いつどの飛行機で日本を発つかは誰にも言わず秘密にしていたが、一度目の査証申請時にすでに永遠に日本を去る決意を岡沢に語っている。のちに岡沢へ送った手紙には「(略)本当に岡沢さんにハお世話になった。疎開前後東京の住さんの処へ移った時又小竹町へ移った時は真裸体になって天井裏に入って電気をみてくだすった等とてもとても言葉に現はせぬ程親切にして下すつて其のご恩は忘れた事ハありませんでしたが日本を立つ時いろいろ邪魔が入ったりして世間が煩わしいのでだまつて君に御暇乞もせずに立つた事が大に今更口惜しいような気がして心残りになったと二人で今頃もつくづく噂した次第です 何うか悪しからず恩知らずの人間と思はずに居て下さい(略)」と思いを綴っている。以後も手紙での親交は続き、1955年に藤田がレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲した際には、受勲の喜びと同時に複雑な心情を語っている。 1966年3月、「全日本スキー連盟オーストリア・フランス国立スキー学校旅行」の団長としてシャモニーを訪れていた岡沢は、娘・由美子の手配でヴィリエ・ル・バクルで藤田と再会している。藤田は訪ねてきた岡沢に「キリスト頭部のデッサン」と猫の版画を贈った。二人は藤田が1968年1月に息を引き取るまで幾度も手紙や絵葉書を送っている。
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