岡浦の航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:14 UTC 版)
熊襲征伐の際、熊鰐という者が周芳の佐波(山口県防府市佐波)で天皇を出迎えた。船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊が掛かっていた。豊浦津から筑紫に入る天皇に熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。そこで菟田出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。後から来た皇后もまた船が進まず熊鰐が導いた。これらの功から熊鰐は岡県主となった。 また天皇が筑紫に入る際に五十迹手(いとて)という者が穴門の引嶋で出迎えた。周芳の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣が掛かっていた。八尺瓊は智謀、白銅鏡は見識、十握剣は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。そこで五十迹手の治める国を伊蘇国といい、訛って伊都国という。その後、天皇は無事に灘県に到着して橿日宮を造営した。 賢木(榊)に神器を掲げて貴人を出迎える事例は景行紀にも書かれている。熊鰐と同じく周芳の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊が掛かっていた。神代にも天岩戸に籠る天照大神を呼び出すため太玉命と天児屋命が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に八咫鏡、下枝に和幣を掛けたという話がある。
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