専門学校昇格と晩年(1926-1941)
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「二階堂トクヨ」の記事における「専門学校昇格と晩年(1926-1941)」の解説
「日本女子体育専門学校 (旧制)#専門学校への昇格」も参照 1926年(大正15年)3月24日、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り丸坊主になったりしたエピソードが関係者の間で知られている。震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった。文部省が審査のために来校した時には、慶応義塾大学や東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育短期大学/東京女子体育大学)から図書や備品を借りて審査をやり過ごした。 体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄は、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した。社会が戦争へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年将校を愛し、将校の側もそれを分かっていて軍事演習の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も国家主義・国粋主義的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった。 こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ、校内に引きこもり、病気がちとなった。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした。1933年(昭和8年)にトクヨとの面会を許された記者によると、当時のトクヨは火鉢で餅を焼きながら来客を応対し、3坪ほどの部屋を書斎兼校長室としていた。室内は洋風で奥には「正義無敵」の額があり、トクヨはロイド眼鏡をかけ、和装していた。語尾の「〜よ」を強調する話し方をし、楽しみは入浴・睡眠・月1回の歌舞伎鑑賞であった。 1937年(昭和12年)、佐々木等や戸倉ハルらの尽力で東京女高師に体育科が設立された。トクヨはこれを喜び、両手いっぱいに花束を抱えて下村寿一校長を訪問し、「限りなき喜びです」と挨拶した。その後は桜蔭会(東京女高師同窓会)員とお茶をしながらの座談会を行い、「これから(体専と東京女高師で)競争しましょう」と発言し、大笑いした。久々の母校訪問とあって夕方まで校内に滞在し、校内を一巡して満足げに帰宅した。 1941年(昭和16年)4月7日、体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・東京共済病院)に入院、後に本人の希望で慶應義塾大学病院に転院した。病名は胃ガンで、ほかに糖尿病や白内障などの持病があった。4月14日にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を養女にとった。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、輸血を申し出たが、一切断っている。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった。当日は稀に見るような暑さであったという。生涯独身であった。 「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している。( / は改行) 「 馬鹿を見るな / 愚痴をこぼすな / 時は解決 / 勝て!! / 償へ / 大摂理に安んぜよ / 自適楽天 / 大御手の身がはり / 時は勝利 / 大慈悲の手 / 報償、深慮、自適、浄土 / 外に無し ただ羽根布団わが一生 」 教育学者の上沼八郎はこれを「女子体育という特殊な未開の領域に生涯を捧げた明治の女性の面目を語っているように思う」と評した。
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