専門学校への昇格
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「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「専門学校への昇格」の解説
1926年(大正15年)3月24日、文部省は日本女子体育専門学校(体専)を認可した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。体専の目的は「女子ニ高等ノ体育理論及実際ヲ教授シ、以テ体操科教員ヲ養成スルコト」と定めた。昇格に伴い、修業年限は3年に延長されたが、2年制の専修科も並置された。トクヨの個人経営とはいかなくなり、財団法人日本女子体育専門学校(以下「財団」)を設立し、学校は財団の経営に切り替わり、理事長にトクヨが就任した。 専門学校昇格と前後して、1927年(昭和2年)にトクヨは「選手育成の試み」を開始した。1928年アムステルダムオリンピックで人見絹枝が800mにて銀メダルを獲得すると、日本各地の女学校に現れた「人見二世」は人見に憧れて続々と体専に入学した。1932年ロサンゼルスオリンピックには卒業生1人、在校生2人が出場、続く1936年ベルリンオリンピックにも卒業生1人、在校生2人が選ばれ、卒業生の松澤初穂がコーチ兼トレーナーとして派遣された。こうしてアスリートが次々と入学してくるようになった体専は明治神宮競技大会でも活躍が目立ち、「女子スポーツのメッカ」と呼ばれるほどになった。 念願の専門学校となったものの、体専は順調な発展を遂げることはできなかった。定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と定員割れしてしまった。その理由を教師の資格が取れないからだと考え、1927年(昭和2年)8月24日に文部省へ中等教員無試験検定資格認定の許可を申請し、1928年(昭和3年)6月4日に許可された。女子の中等教員無試験検定の許可校は、日本體育會體操學校女子部、東京女子音楽体操学校、中京高等女学校(家事体操専攻科のみ、現・至学館高等学校・至学館大学)に次ぐ4校目(女子のみの学校としては3校目)であった。これにより1929年(昭和4年)以降の卒業生は体操科免許の無試験検定の対象となったが、あくまでも「検定」なので、不合格となる可能性もあった。念願の無試験検定資格を得たものの、トクヨのもくろみは外れ、1学年の人数は40 - 50人台で低位安定した。真寿は、日中戦争が暗い陰を次第に濃くしていったことがその理由の1つであると分析した。1936年(昭和11年)11月3日にトクヨは「奮起せよ!日本女選手!」と題した檄文を出し、「人見嬢に続かしめ」る日本女性を「日本のほこり」のために体専で育成することを宣言し、成績優秀者に特別優遇を行うと発表した。ところが1938年(昭和13年)に国家総動員法が施行され、1940年東京オリンピックの開催返上が決定すると、翌1939年(昭和14年)からアスリートへの優遇を廃止し、対外試合への出場も禁止した。男性体操教師が次々と召集され戦場へ送られる社会情勢では、選手育成よりも優秀な女性体操教師の育成に集中すべきであるとの判断からだった。 自分の身を国家に捧げるというトクヨの崇高な志は、時々の政策に引っ張られやすいという弱点を持っており、陸軍現役将校学校配属令が出された時には「ご出陣を祝ひ奉る」と賛美する文章を発表し、軍人への慰問のために校内に花畑を造成した。当時のトクヨを、体専教師の今村嘉雄は「よい軍国婆さん」と表現した。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ、校内に引きこもり、病気がちとなった。多くの篤志家の寄付に支えられ、優秀な塾生に囲まれて幸福だった創立当初とは異なり、この頃には親しい人が多く離れてしまったと見え、真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かしている。 1941年(昭和16年)4月7日、トクヨは体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・東京共済病院)に入院、後に慶應義塾大学病院へ転院した。病名は胃ガンで、同年7月17日午前1時40分に60歳で死去した。
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