二階堂体操塾の開塾と発展とは? わかりやすく解説

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二階堂体操塾の開塾と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:49 UTC 版)

日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「二階堂体操塾の開塾と発展」の解説

1922年大正11年4月15日1期生40数人迎えて二階堂体操塾(以下「体操塾」)が創立した女子体育の研究機関女子体育家の養成機関兼ね、トクヨを中心として入塾とともに創り上げていく共同体であった当時日本では体操教師社会的地位低く学校側需要に対して体操教師志願者少なかった。そのため1期生は、周囲反対押し切って入塾した人が多く優れた資質持った生徒揃っていた。その1人に、戦後参議院議員となる山下春江がいた。山下は、体操講習会見たトクヨの脚が憧れアンナ・パヴロワバレリーナ)のようにすんなりとしていたことをきっかけ入塾した。トクヨは塾長教師舎監事務員1人で何役もこなし、多い日には1人4時間の授業こなした東京女高師3年かけて教え内容1年叩き込むという方針だったため、授業をするトクヨも受ける生徒エネルギッシュであった授業内容は、号令掛け方、脚や腕の鍛錬4 - 5種類ダンスランニング肋木などの器具用いた器械体操などであった。ほかに「二階堂五禽運動」と称するツルツバメなどの姿をまねた運動取り入れていた。授業では生徒リレー練習中に卒倒したり、開脚跳びで無理をして腸筋を痛め療養したりするなど、生徒課すべき運動量研究段階である故の惨事発生した体操塾設備が不十分で資金難連続であったが、経営するトクヨは幸せそうだった末弟二階堂真寿証言している。開校して間もなく体操教師不足の時勢からトクヨの活動世間注目浴び9月には塾生出張教授依頼舞い込み多く見学者が来塾した。中でも10月4日には処女会指導者200人が見学訪れ、塾では歓迎のために代々木練兵場体操ダンス披露した。この歓迎会では創業から間もないラクトー社(現・カルピス株式会社)がカルピス参加者振る舞うコーナー設けられた。塾生半数は(3学期制の)2学期の末までに就職先決まっており、残る半数卒業まで就職先確定した塾生就職せずとも生きていけるような良家女子であったが、見知らぬ土地への赴任いとわず体育教師となった。 塾の評判から、2期生30人定員だったにもかかわらず1923年大正12年6月時点72人が在籍していた。9月1日関東大震災発生し東京市では大規模な火災発生したが、体操塾では火事にならず、トクヨも生徒も無事であった。しかし瓦が散乱し、壁は崩れ塾舎は半倒壊したため、使用困難となった。塾は1か月休止して生徒故郷帰し、『わがちから』は休刊としたが、その後再建のため、塾生体操ダンスをしている写真101組したものをトクヨが作り塾生売り歩かせることで資金調達し1924年大正13年1月25日荏原郡松沢村松原717番地現・世田谷松原二丁目17番22号、日本女子体育大学附属二階堂高等学校位置)に新校地を求め、できたばかりバラック校舎移転した当日塾生椅子抱えて甲州街道代々木から松原まで6 km行進し沿道の人の注目浴びた。そして3月2人の在塾研究生除き2期生76全員女子中等学校への就職決めて卒業していった。 1924年大正13年4月入塾し3期生中には人見絹枝がいた。岡山県出身人見期待して入塾したものの、バラック建ての塾舎がっかりし教育内容期待外れで、退塾したいとさえ思ったという。テニス選手なりたかった人見にとって、アスリートを嫌い、養成する気などないトクヨの教育はつらいものであり、高等女学校時代アスリートとして活躍した人見良くも悪くもトクヨに目を付けられていた。ところが9月岡山県から県の女子体育大会への出場要請人見に届くと、トクヨは出場快く許し小遣いまで渡した。この大会で人見三段跳世界新記録マークすると、トクヨは運動場急きょ2倍に拡張して競技力向上を支援し人見が「友達の目をおそれる位」に溺愛するようになった1925年大正14年1月に『わがちから』を『ちから』に改題して発行再開したこの頃にトクヨは、体操塾女子専門学校昇格させる計画公表し、仮校名を「日本女子体育大学」とした。3月には人見卒業し、トクヨは「1年間だけ勤めて来なさい」と人見京都市第一高等女学校(現・京都市立堀川高等学校)へ送り出した。しかし7月台湾総督からトクヨに体操講習会講師依頼届き、トクヨは自身代理として人見派遣することにし、台湾から戻ってからは研究生として人見体操塾呼び戻した人見はトクヨと並べて二人三脚専門学校への昇格目指し1926年大正15年1月15日校名日本女子体育専門学校」として文部省申請行った

※この「二階堂体操塾の開塾と発展」の解説は、「日本女子体育専門学校 (旧制)」の解説の一部です。
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