二階堂体操塾の開塾と発展
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「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「二階堂体操塾の開塾と発展」の解説
1922年(大正11年)4月15日、1期生40数人を迎えて二階堂体操塾(以下「体操塾」)が創立した。女子体育の研究機関と女子体育家の養成機関を兼ね、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった。当時の日本では、体操教師の社会的地位は低く、学校側の需要に対して体操教師の志願者は少なかった。そのため1期生は、周囲の反対を押し切って入塾した人が多く、優れた資質を持った生徒が揃っていた。その1人に、戦後参議院議員となる山下春江がいた。山下は、体操講習会で見たトクヨの脚が憧れのアンナ・パヴロワ(バレリーナ)のようにすんなりとしていたことをきっかけに入塾した。トクヨは塾長、教師、舎監、事務員と1人で何役もこなし、多い日には1人で4時間の授業をこなした。東京女高師が3年かけて教える内容を1年で叩き込むという方針だったため、授業をするトクヨも受ける生徒もエネルギッシュであった。授業内容は、号令の掛け方、脚や腕の鍛錬、4 - 5種類のダンス、ランニング、肋木などの器具を用いた器械体操などであった。ほかに「二階堂五禽運動」と称する、ツルやツバメなど鳥の姿をまねた運動を取り入れていた。授業では生徒がリレーの練習中に卒倒したり、開脚跳びで無理をして腸筋を痛め療養したりするなど、生徒に課すべき運動量が研究段階である故の惨事が発生した。 体操塾は設備が不十分で資金難の連続であったが、経営するトクヨは幸せそうだったと末弟の二階堂真寿が証言している。開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込み、多くの見学者が来塾した。中でも10月4日には処女会指導者約200人が見学に訪れ、塾では歓迎のために代々木練兵場で体操やダンスを披露した。この歓迎会では創業から間もないラクトー社(現・カルピス株式会社)がカルピスを参加者に振る舞うコーナーが設けられた。塾生の半数は(3学期制の)2学期の末までに就職先が決まっており、残る半数も卒業までに就職先が確定した。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった。 塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、1923年(大正12年)6月時点で72人が在籍していた。9月1日、関東大震災が発生し、東京市では大規模な火災が発生したが、体操塾では火事にならず、トクヨも生徒も無事であった。しかし瓦が散乱し、壁は崩れ、塾舎は半倒壊したため、使用困難となった。塾は1か月休止して生徒を故郷に帰し、『わがちから』は休刊としたが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を10枚1組にしたものをトクヨが作り、塾生に売り歩かせることで資金を調達し、1924年(大正13年)1月25日に荏原郡松沢村松原717番地(現・世田谷区松原二丁目17番22号、日本女子体育大学附属二階堂高等学校の位置)に新校地を求め、できたばかりのバラック校舎に移転した。当日は塾生が机や椅子を抱えて甲州街道を代々木から松原まで6 km行進し、沿道の人の注目を浴びた。そして3月、2人の在塾研究生を除き、2期生76人全員が女子中等学校への就職を決めて卒業していった。 1924年(大正13年)4月に入塾した3期生の中には人見絹枝がいた。岡山県出身の人見は期待して入塾したものの、バラック建ての塾舎にがっかりし、教育内容も期待外れで、退塾したいとさえ思ったという。テニスの選手になりたかった人見にとって、アスリートを嫌い、養成する気などないトクヨの教育はつらいものであり、高等女学校時代にアスリートとして活躍した人見は良くも悪くもトクヨに目を付けられていた。ところが9月に岡山県から県の女子体育大会への出場要請が人見に届くと、トクヨは出場を快く許し小遣いまで渡した。この大会で人見が三段跳の世界新記録をマークすると、トクヨは運動場を急きょ2倍に拡張して競技力向上を支援し、人見が「友達の目をおそれる位」に溺愛するようになった。 1925年(大正14年)1月に『わがちから』を『ちから』に改題して発行を再開した。この頃にトクヨは、体操塾を女子専門学校へ昇格させる計画を公表し、仮校名を「日本女子体育大学」とした。3月には人見が卒業し、トクヨは「1年間だけ勤めて来なさい」と人見を京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高等学校)へ送り出した。しかし7月に台湾総督からトクヨに体操講習会の講師依頼が届き、トクヨは自身の代理として人見を派遣することにし、台湾から戻ってからは研究生として人見を体操塾に呼び戻した。人見はトクヨと机を並べて二人三脚で専門学校への昇格を目指し、1926年(大正15年)1月15日に校名「日本女子体育専門学校」として文部省へ申請を行った。
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