二階堂体操塾の創立(1922-1926)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
「二階堂トクヨ」の記事における「二階堂体操塾の創立(1922-1926)」の解説
「日本女子体育専門学校 (旧制)#二階堂体操塾の開塾と発展」も参照 1922年(大正11年)4月15日、私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた。女子体育の研究機関と女子体育家(≒女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾で、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった。この時トクヨは41歳であった。校舎は東京・下代々木(後の小田急小田原線参宮橋駅付近)に借りた庭園付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や軍医ら軍関係者、野口源三郎・大谷武一ら体育界の重鎮も教鞭を執った。また、トクヨの母・二階堂キンとお手伝いさん2人が家事を行って塾生を支えた。 開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった。この年の12月4日、東京キリスト教青年会会館で第6回極東選手権競技大会を前にした女子体育の講演会が開かれ、野口源三郎・大谷武一・沢田一郎・内藤起行に続いてトクヨも演壇に立った。この時のビラでトクヨの肩書が「前東京女高師教授」になっていたことにトクヨは激昂し、「余は死せるか!」と冒頭の5分間熱弁を振るった。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した。この1期生には、後に参議院議員となる山下春江がいた。 1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事であった。塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った。トクヨは荏原郡松沢村松原(現・世田谷区松原二丁目、日本女子体育大学附属二階堂高等学校の位置)に移転を決め、1924年(大正13年)1月25日にバラックの塾舎へ移転した。 3期生には1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、陸上800m走で同じく日本女子史上初となる銀メダルを獲得した人見絹枝が入学した。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気は毛頭なかったが、絹枝と出会って女子体育の発展にアスリート養成が不可欠との認識に至った。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)でも週1回教え始めた。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の専門学校昇格のための学習・準備を兼ねていた可能性がある。
※この「二階堂体操塾の創立(1922-1926)」の解説は、「二階堂トクヨ」の解説の一部です。
「二階堂体操塾の創立(1922-1926)」を含む「二階堂トクヨ」の記事については、「二階堂トクヨ」の概要を参照ください。
- 二階堂体操塾の創立のページへのリンク