寵臣の出世と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:30 UTC 版)
寵臣となった者は他の貴族たちから嫉視と憎悪を向けられる場合がほとんどであり、君主もまた時として寵臣を追放または処刑するよう貴族から政治的圧力をかけられることがあった。中世には、貴族たちはしばしば寵臣の捕縛・殺害を目的として反乱を起こした。君主と寵臣の親密すぎる関係は、自然の秩序及びあるべき身分序列に対する重大な違反行為と見なされた。寵臣は大胆で「思いあがった」性格の人物が多く、軽率な振る舞いによって破滅の道を歩んだ者も少なくなかった。時代が下るに従い力を付け始めたジェントリやブルジョワジーといった新興の社会階層もまた、寵臣に対して激しい敵意を燃やした。寵臣は、特に出身階層が卑しいか、少なくとも下級階層出身で、君主の寵愛だけを頼りに出世した場合、全社会階層から憎悪された。寵臣はたいてい称号や所領をふんだんに与えられたが、人々は彼らを、突如として一晩で肥溜めからにょきにょきと生え育ってくるキノコに例えた。クリストファー・マーロウは『エドワード二世』の中で、王の寵臣ピアーズ・ギャヴィストンのことを「夜に育つキノコ」と政敵に呼ばせている。 寵臣の失墜は突然起きることが多かったが、1650年頃からは、失寵後に待つのは処刑ではなく静穏な引退生活になっていった。レスター、レルマ(英語版)、オリバーレス、オクセンシェルナのような高位貴族出身の寵臣は、人々に憎悪されることが少なく、権力を長く維持できた。成功した寵臣上がりの大臣は多くの場合、統治業務をこなすために自身の寵臣や親族のネットワークに頼っていた。リシュリューは「クレアチュール(créatures)」、オリバーレスは「エチュラ(hechuras)」という集団を持っていた。オクセンシェルナとウィリアム・セシルは執務中に亡くなったが、どちらも自分の息子に権力を継承させることに成功した。 寵臣と国王政府に奉仕する傑出した行政官は、君主の寵愛を必要とする者の最上位に位置するという意味で、時としてその区別を付けることが難しくなる。しかし寵臣は政治・行政機関で業務を統率するよりも、宮廷社会の中で君主と最も緊密に結びついた人物を指す語である。ウィリアム・セシルやコルベールは、君主との個人的な関係を利用して政府高官としての出世の階段を上り詰めたが、貴族の第一人者のように振る舞うことは避けたため、寵臣としては成功者となった。エリザベス1世は1558年に即位して以来、セシルを国務長官ないし大蔵卿en:Lord High Treasurerとして重用し、セシルが死ぬまで40年間そばに置き続けた。一方で、彼女は女性君主として、他の幾人かの廷臣との間で、よりロマンチックで親密な関係を築いた。優れた政治家でもあったレスターとのそれが最も愛情深く長続きした。エリザベスの晩年、ウィリアムとロバートのセシル父子の権力は女王の新しい寵臣エセックスによって脅威にさらされるが、エセックスはロバート・セシルによって排除された。 ウルジー枢機卿は教会人ながら行政のヒエラルキーの頂点に立った人物だが、衒示的な生活ぶりが人々の反発を買い破滅した。ウルジーに限らず、中世においては王の寵臣は聖界から供給されるのが常だった。イングランドの例を挙げれば、ドゥンスタンやトマス・ベケット、ウィリアム・ウェインフリート(英語版)、ロバート・バーネル(英語版)、ウォルター・レイノルズ(英語版)などである。グランヴェル枢機卿は、その父親と同様ハプスブルク家に信任され絶大な権力を振るった大臣だが、そのキャリアの大半は君主が在国でないネーデルラントで築かれたものだという点を考えれば、寵臣には該当しない。 寵臣の中には非常に素性の卑しい者もいた。イングランド王ジェームズ1世のお気に入りアーチボルド・アームストロング(英語版)は道化師であり、その出自の低さと鋭い舌鋒で宮廷の人々の憎悪を掻き立てたが、金持ちになって引退後は悠々自適の生活を送った。スコットランド人のロバート・コクラン(英語版)は石工(といっても職人というよりは親方層に属し、建築家と表現した方が近い)だったが、王族に授ける習いのマー伯爵に叙爵されるに至って貴族の反乱が発生、国王ジェームズ3世の他の卑賎な生まれの寵臣たちと一緒に捕まって絞首刑になった。フランス王ルイ11世の理髪師オリヴィエ・ル・ダン(英語版)は爵位や枢要な軍司令官職を与えられたが、主君の死の直後、貴族たちは彼を曖昧な内容の罪状で捕え、新王に何も知らせないまま処刑した。ル・ダンの出現は、フランス語で寵臣を意味する「ファヴォリ(favori)」の語が生まれるきっかけとなり、この語はル・ダンが殺された1484年頃に初めて使用された。スペイン語で寵臣を指す語「プリバード(Privado)」はこれより古くから存在したが、後に「バリード(valido)」という語に取って代わられた。この2語とも、英語やフランス語での寵臣を指す語に比べると、否定的なニュアンスは少なかった。 下層の召使からの寵臣ヘの立身出世は時代が下るにつれて困難になっていった。幸運にも、広がってゆく一方だった貴族と召使の階級的な溝を飛び越えることが出来た最後の例の1つが、ルイ14世の従者アレクサンドル・ボンタン(英語版)の家族である。一家はボンタンの後の3世代、つまり曾孫の世代までの間、多くの権門勢家と通婚し、その中には王家の分家筋(最後のコンティ親王の庶子)さえも含まれた。ヴィクトリア女王が目をかけたジョン・ブラウンは登場した時代が遅すぎた。主君からの寵遇と女王の家政機関への境界侵犯は、社会的・経済的な利益をほとんど何も生まなかった。
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