寵臣の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:30 UTC 版)
イングランドでは、議会が政治的重要性を増す過程の中で、寵臣の掌握できる政治権力の範囲は縮小していった。同国の代表的な「キノコ」の1人バッキンガムが1628年ジョン・フェルトン(英語版)に暗殺された後、元々はバッキンガムとチャールズ1世に反対する議会指導者だったストラフォードは国王と和解し、国王支持派に転じた。いくらチャールズ1世との関係が親密だったとしても、ストラフォードを通常の定義で寵臣と見なすことは難しい。彼は権勢やコネのある名望家層の出身者だった。権力の座にしばらくあった後、ストラフォードは今や彼を強く敵視するようになった議会から弾劾を受けた。弾劾が不首尾に終わると、議会は私権剥奪法(英語版)を利用して彼に審理なしの死刑宣告を下した。チャールズ1世は議会の圧力に負けて、躊躇しながらも死刑執行命令に署名、ストラフォードは処刑された。イングランドではその後も寵臣上がりの大臣が登場するが、彼らは君主からだけの信頼を勝ち得ているだけでは為政者としては不十分だと自覚していたし、彼らの大半が国会議員経験者だった。 イングランドとは対照的に、フランスでは寵臣を政治から締め出す動きは王権側から起きた。1661年マザラン枢機卿が死ぬと、23歳だったルイ14世は親政を決意し、大臣に権力を委任してきた過去40年間の寵臣政治との訣別を表明した。絶対王政はマザランの前任者リシュリュー枢機卿によって導入されたが、今や君主自身によって主導されることとなった。ルイ14世には財務担当のコルベールや軍事担当のルーヴォワなど多くの有能な大臣が仕えたが、全権を委任されることはなかった。そして以後の大臣の誰も、リシュリュー・マザランの両枢機卿が保持した規模に匹敵する権力を得ることはなかった。 スペイン・ハプスブルク家の王権はフランスのような改革意欲も統治能力も持たなかったが、オリバーレスの政治権力が甥のルイス・デ・アロ(英語版)に移譲された後は、以前のように一人の権力者が統治権を一手に握る状況は徐々に弱まっていった。
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