宝冠盗難事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 21:53 UTC 版)
「東大寺不空羂索観音立像」の記事における「宝冠盗難事件」の解説
この宝冠は、1937年(昭和12年)2月12日に盗難被害に遭った。盗まれたのは宝冠そのものではなく、中心にある銀製の化仏と一部の宝玉だった。東大寺側はしばらくの間盗難被害に気づかず、事件が発覚したのは同年3月7日になってからであった。 発覚した3月7日は、修二会(お水取り)の行法期間であった。翌3月8日に奈良県警立会いのもとでとび職の助けを借りて立像から宝冠を取り外し、被害状況を調査することになった。調査自体は3月9日に行われ、盗難届の提出は3月10日のことであった。 同年3月11日の大阪毎日新聞は「奈良三月堂の怪!国宝本尊、宝冠の阿弥陀像盗まる」という見出しで事件を報じた。大阪朝日新聞も事件を同じく大きく報じた。3月15日に修二会の行法が終わり、同月19日には事件に関する東大寺塔頭の住職会議が開かれた。その後事件は膠着状態に陥った。 発生後半年ほど経過した11月7日に、「鳥井」と名乗る人物から「盗難宝物の所在を知っている」という手紙が届いた。「鳥井」は「返還の労をとる」という名目で当時の金額で500円の謝礼を求め、手付金として100円を要求してきた。「鳥井」は大阪市北区に住む戊という男の偽名であった。当時東大寺の庶務執事を務めていた筒井英俊は、1月14日に東京に行き、戊を伴って16日の朝に東大寺へ戻った。筒井には刑事課長の尾行がついていて、戊は17日に逮捕された。しかし取り調べの結果、戊は宝冠盗難事件に乗じて詐欺を計画したことがわかり、事件の解決にはつながらなかった。 次に動きがあったのは、1941年(昭和16年)夏のことであった。その年の8月10日、法華堂の前にある池の中から盗まれた化仏に似た仏像が見つかった。調査の結果、この仏像はアンチモニー製の量産品であり、近畿や九州に広く流通したものと判明した。 その後盗品の行方はなかなかわからず、時効が迫りつつあった。事件が展開したのは、1943年(昭和18年)8月に入ってからである。政治家の田万清臣のもとに、盗品の一部(蓮座の芯)が持ち込まれた。田万は東大寺の管長と親しかったため、これが盗難に遭った宝冠の一部ではないかと察して東大寺に連絡を取り、警察とも連携して犯人の逮捕と盗品の回収に成功した。 田万のところに盗品を持ち込んだのは、泉大津市に住む丙(当時69歳)という男だった。田万は丙に対して「今年は廬舎那仏御発願1200年」だから盗品を東大寺に納めるように説得し、丙もそれに応じた。9月14日、丙は田万の自宅で化仏を東大寺の清水管長に見せ、清水もそれが化仏に間違いないと確認した。翌日筒井は丙を伴って大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の上六駅から電車に乗った。2人が電車に乗ったところを見計らい、尾行の刑事が車中の臨検を始めた。臨検はヤミ米を持っている乗客が多かったために難航したが、生駒トンネルの中で丙の尋問に成功した。刑事が丙のカバンの中身を質問したところ、丙も筒井も答えることができなかったため、刑事は2人を生駒駅で下車させてそのまま生駒警察署に連行した。 丙は当日夜10時ごろ、犯行について自供した。丙は盗品をミカン箱にしまい、自宅の押し入れに隠し続けていた。ところが、事件解決の年の夏に丙の妻が盗品の隠してある押し入れの前で「しんどい、しんどい」と言いながら横になって、そのまま死亡した。丙はこの事態を目の当たりにして仏罰が恐ろしくなり、盗品を返そうと思ったという。 丙の供述により、事件の全貌が判明した。丙は1937年(昭和12年)2月14日に丁という男から盗品を手に入れた。丁から「法華堂の盗品があるので捌いてほしい」と依頼され、これを一儲けの好機と考えた丙は買取を条件として預かることにした。ただし、主犯は丁ではなく、甲という男だった。甲は1937年(昭和12年)2月12日、共犯となった甥の乙とともに午後7時ごろ奈良に赴いた。深夜になると2人は小雨の降る中を法華堂に向かい、午後11時ごろに現場に着いた。乙が見張りに立ち、甲が法華堂に侵入して宝冠を窃取した。2人は翌日早朝大阪に戻り、それから丁に盗品の処分を依頼した。 事件解決の際、主犯の甲は既に死去していた。死去は事件発生の年の10月ごろで、犯行の後に別件で逮捕されて神戸刑務所に服役していたが腸結核にり患し、仮出獄後間もなくの時期であった。共犯の乙は広島の西部第七部隊に入隊していたが、軍法会議に掛けられて懲役刑を受けた。丁は懲役4年、罰金500円、丙は懲役2年、罰金300円の判決を受けた。 宝冠の修理は、1947年(昭和22年)から始まった。この年6月に東京国立博物館に寄託され、1949年(昭和24年)1月から作業が開始された。同年7月ごろに完成をみた宝冠が東大寺への帰還を果たしたのは、1950年(昭和25年)10月26日になってからであった。宝冠は1952年(昭和27年)8月2日から24日まで日本橋高島屋を会場として行われた「大仏開眼千二百年記念東大寺名宝展」に貸し出され、その後15年ぶりに不空羂索観音像の頭上に戻されている。
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