宇宙論について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
宇宙や物質の世界に論じるにあたって、デューリングの見解が批判されている。 デューリングは、宇宙はある時点に始まり、そして、いつしか安定する静止的な宇宙観を提示していた。宇宙には始まりがあるが同時に無限性を持ったものとして理解されたのだ。エンゲルスは、カントの『純粋理性批判』やヘーゲルの弁証法的な宇宙観の剽窃に過ぎないとデューリング批判をおこなった。 「終わりはあるが始めのない無限性は、始めはあるが終わりのない無限性と同様に、無限であり、それ以上でも以下でもないということは、明白である。……ほんの少し弁証法的な識見がありさえすれば、始めと終わりとは北極と南極とのように必然的に連関するものであって、終わりをなくせば、始めがまさに終わり―その系列のもつ唯一の終わりとなり、逆の場合はこの逆となることがデューリング氏にもわかったに違いにない。……。とにかく、デューリング氏が現実の無限性を矛盾なしに思考しようとしても、それは決して成功しないであろう。無限性というものは一つの矛盾であり、もろもろの矛盾に満ちている。そもそも無限性がまったくの有限性ばかりから構成されているということは、それがすでに一つの矛盾であるが、しかも実際はその通りなのである。……。このことはヘーゲルが極めて正しく見抜いていたところであって、それだから彼はまたこうした矛盾をとやく詮索するご連中を、当然の軽蔑をもって取り扱っているのである。」 ここでの議論を要約すると、エンゲルスは宇宙を有限のものとして考え、始まりと終わりのあるものとして理解していたことが見て取れる。定常宇宙論を拒絶し、宇宙の進化を支持する立場を採った。時間と空間、すなわち宇宙誕生以前についてはこう語っている。 「時間に一つの始まりがあったものとしよう。こうした始まりの以前にはなにがあったのか?自己同一の不変の状態にある世界である。そしてこの状態にあってはどんな変化も継起しないのだから、実際また、このかなり特殊な時間概念はもっと一般的な存在という観念に転化してしまうわけである。……。いわく元来それは一種の時間であろうが、しかし根本的には時間とは呼べないような時間である。……。デューリング氏によると、時間が存在するのはもっぱら変化があるからなのであって、変化が時間のうちに、また時間によってあるのではない。だが、時間が変化とは別のもの、それとは独立のものだからこそ、われわれは時間を変化によって測定することができるのである。」 時間と空間には関係性があり、ともに宇宙の基本的な構成要素である。そして、時間と空間の始まりが、変化、すなわち宇宙の誕生を意味している。これがエンゲルスの宇宙誕生に関する見方となっている。宇宙誕生の最初の契機はなんだったのか?これは人類にとって今も最も重要な問いになっており、19世紀人のデューリングにとってもエンゲルスにとっても重要な問題となった。デューリングは定常宇宙論を支持し、自己同一的で「絶対的な安定」の世界を前提に宇宙を論じようとしていた。一方、エンゲルスはこうした考えをキリスト教の創造論の焼き直しで、単なる「児戯」と見なして糾弾した。 「世界がかつて絶対的にどんな変化も起こらないような状態にあったとすれば、どのように世界はこの状態から変化へ移行することができたのか?絶対に変化しないものは、しかも永遠の昔からこの状態にあったものだとすれば、自分自身でこの状態をぬけだして、運動と変化との状態に移行するということはありえないはずだ。であるから、外部すなわち世界の外から第一の衝撃がやってきて、それを突き動かしたに違いない。ところが、第一の衝撃というものは、周知のように、神の別名に過ぎないものである。神と彼岸とは、デューリング氏が自分の世界図式論のなかであれほど綺麗さっぱりお払い箱にしたような顔をしたものであるが、彼はここではそれを両方とも、先鋭化し深化して、自分でふたたび自然哲学のうちに持ち込んでいるのである。……。」 「絶対的同一性は変化に到達しえない―これはデューリング氏の告白するところである。絶対的平衡が運動に移行するための手段は、それ(宇宙)自身にはなにもない。……。ここで公然と議論されているのは、運動を無運動から、従って無から生み出すことなのである。……。けれども、事柄はしごく簡単なことなのである。運動は物質の存在様式である。運動のない物質はいつどこにもなかったし、またあり得ない。……。あらゆる静止、あらゆる平衡は相対的なものであり、なにかある一定の運動形態との関係において意味があるにすぎない。」 「わが形而上学家にとっては、運動がその反対物である静止をその尺度とするなどということは確かに厄介千万な苦々しいことに違いない。それはまさにとんでもない矛盾であり、しかもデューリング氏によると矛盾というのはすべて背理なのである。それにもかかわらず、ぶらさがっている石がその重さと地面からの距離によって精密に測定することのできる力学的運動の一定量を表すものであり、その運動の量はさまざまな仕方で…任意に使用されるものであること、そしてまた装填された銃の場合もこれと同じだということは事実なのである。弁証法的な見解からすれば、運動がその反対物である静止によって表現されうるということには、なんの困難もない。一切の対立は相対的であり、絶対的な静止、無条件な平衡というものはないのである。個々の運動は平衡に達しようとするが、全体としての運動はふたたび平衡を止揚する。それであるから、静止や平衡が現れる場合には、それはある局限された運動の結果なのである。」 エンゲルスは、力学や物理学の具体例を挙げながらも一貫して、「相対的な均衡」を軸に宇宙を論じた。 宇宙の誕生については、ビッグバン理論が登場する前に、宇宙の進化を支持し、宇宙以前にも均衡を破るエネルギー(運動)が存在することを示唆した。論証するのは困難であるが、量子力学的な観点から、仮想粒子の対生成と対消滅による相対的均衡という状態が宇宙以前にはあり、こうした相対的な真空状態のなかで量子ゆらぎが発生、ビッグバンの引き金となって宇宙が誕生したというシナリオを、数学や物理学の方程式ではなく、哲学的な思惟と物理学研究についての見聞から構築した弁証法的宇宙観で考えていたと見なせる。エンゲルスの言及を見ると、エンゲルスは物質とエネルギーの関係についても、アルバート・アインシュタインが「質量とエネルギーの等価性」を示す公式「E = mc2」を発見する前に、彼が物質とエネルギーを結び付けて考えようとしていたことも読み取れる。ビッグバン理論や相対性理論につながるような観点がエンゲルスにはあり、エンゲルスは唯物弁証法的な宇宙観に基づいて、宇宙は量子的力学的不均衡によって弁証法的なプロセスから独りでに発生するものと見なし、外界からの「第一の衝撃」を要請するデューリングの超越論的な宇宙観を排斥しようとしたのである。
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