天皇の親拝問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 06:56 UTC 版)
昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年11月20日臨時大招魂祭・1952年10月16日・1954年10月19日例大祭・1957年4月23日例大祭・1959年4月8日臨時大祭・1965年10月19日臨時大祭・1969年10月20日創立100年記念大祭・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたからという仮説があったが具体的な物証は見つかっていなかった。しかし、宮内庁長官を務めた富田朝彦が1988年(昭和63年)に記した「富田メモ」、及び侍従の卜部亮吾による「卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見された。平成時代も天皇による親拝中止は続いていた。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。 戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に天皇の親拝が行なわれなくなったのは、この三木の発言が原因であると言われていた。しかし、2006年になって「富田メモ」に、昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかった。以下は該当部分。 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ 日本経済新聞社「富田メモ研究委員会」は「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。 他の資料として有名なものに卜部亮吾侍従日記がある。 1988年4月28日の日記には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」 2001年7月31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」 2001年8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」 と記述されている。 富田メモ以降、合祀問題を原因とする解釈が現在のところは有力ではないかとされる事が一般的には多い。また、徳川義寛侍従長の回顧録などによれば、昭和天皇や宮内庁は、松岡洋右(外交官)、広田弘毅(外交官)、白鳥敏夫(外交官)ら文人の合祀に疑問を呈しており、その中でも松岡洋右は「日米開戦の張本人」として特に問題視されている。 天皇が親拝を止めた原因をA級戦犯の合祀とする見解への反論も存在する。 櫻井よしこは、メモに「Pressの会見」と題がつけられ、富田と覚しき人物が「記者も申しておりました」と会見での記者の反応も書き記していることから、記者会見のメモだと思われるとし、メモ執筆当日の4月28日に昭和天皇が会見していない事実を挙げ、富田が書きとめた言葉の主が、昭和天皇ではない別人の可能性もあると主張している。また、『産経新聞』は、「昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述があったとしても、いわば断片情報のメモからだけで、合祀そのものを“不快”に感じておられたと断定するには疑問が残る」「合祀がご親拝とりやめの原因なら、その後も春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っていることや、皇族方が参拝されていた事実を、どう説明するのか」という疑問を呈している。 昭和天皇の側近で、戦後「A級戦犯」に指定された木戸幸一元内大臣に対し昭和天皇が、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と述べたとの記述が『木戸日記』にあり、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常によれば、昭和天皇はポツダム宣言受諾に関する御前会議(8月9日~10日)において、次のように発言した。 わたしとしては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと堪えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことをも忍ばねばならぬと思う。 — 御前会議
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