天皇の裏切りと北陸落ちとは? わかりやすく解説

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天皇の裏切りと北陸落ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)

新田義貞」の記事における「天皇の裏切りと北陸落ち」の解説

湊川での敗戦の報を聞き宮方5月27日東坂元比叡山遷幸する。義貞の軍勢湊川での敗戦などにより四散して6000騎にまで減少していた。義貞は近江東坂本本陣置いた29日には、足利方によって京都占領される6月14日尊氏光厳上皇奉じて京都東寺入り後醍醐帝、義貞と睨み合った。以降6月から8月にかけて、京都を巡る攻防展開される6月20日には、足利方の西坂本総大将である高師久激戦の末捕らえ延暦寺大衆引き渡して処刑なされている。 しかし、楠木正成は既に亡く奥州北畠顕家妨害によって加勢に来るのが困難であり、義貞らは劣勢に立たされていた。さらに、この攻防戦の中で、宮方枢要な地位にいた名和長年千種忠顕戦死した。義貞は小笠原貞宗戦ったり、義貞自身は矢を尊氏のいる東寺打ち込み尊氏に再び一騎討ち所望して誘い出そうとした。尊氏奮起してこれを承諾しようとしたが、上杉重能にその軽率窘められて思いとどまった。義貞は尊氏雌雄決しようとしたが、尊氏の首を取ることも京都奪還も叶わずに終わった同時期、尊氏の弟直義は、比叡山東坂本への糧道断ち宮方追い詰めていった(近江の戦い)。また尊氏は、後醍醐帝との和平工作着手した後醍醐帝もこれに応じた新田一門江田行義大舘氏明もこれに応じていた。しかし、義貞には、秘密裏にこの和平工作が行われていたことは知らされていなかった。義貞は事実上天皇から切り捨てられるとなった。 義貞達がこの和平工作が行われていることを知ったのは、和議を結ぶ為に比叡山出立して京都向かおうとするその直前当日10月9日であった。義貞は洞院実世から事情知らされてもすぐに信じることができなかったという。 江田大舘行動疑問感じていた義貞の部下堀口貞満がこの事情知って比叡山内裏すぐさま駆け上がると、天皇は既に出発直前であった。貞満は鳳輦の轅にすがりついて、「なぜ義貞の多年の功を忘れ大逆無道尊氏に心を移されるのか」、「新田一族忠節があるにもかかわらず味方敗戦続きなのは、帝の徳の不足である」、さらには新田一族見捨てて京都帰還するであれば、義貞以下一50余人首を刎ねていただきたい」、と目に涙を浮ながらも後醍醐帝無節操非難して訴えた。すでに鎌倉幕府討滅以降新田一族戦死者132人、郎従戦死者8000人を超えていた。 それから間もなく義貞達も3000を以て駆けつけ後醍醐帝新田軍勢包囲された。このとき、義貞や貞光はじめとする新田一族怒り爆発寸前であったが、義貞は怒りどうにかして抑えていたという。後醍醐帝らは義貞や義助らを呼び寄せて新田一族の功をねぎらい和議結んだのは「計略」であり、それを義貞に知らせなかったのも計略露呈し頓挫することを防ぐ為だとしたが、貞満の進言過ち悟った取り繕った対して義貞は妥協案として、自分恒良親王尊良親王推戴させて、北国へと下向させてほしいと提言した。義貞の軍勢後醍醐帝包囲したことは、クーデターである可能性もあるとも解釈されている。義貞の提言結果宮方北国へ向かう義貞、恒良親王尊良親王軍勢と、後醍醐帝付き従う軍勢二つ分裂した後醍醐帝による新田一族切捨て尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作疑いもある。しかし、宮方がこの日を契機分裂したことだけは確かである。新田一族大半洞院実世千葉貞胤宇都宮泰藤は義貞に随行したが、大舘氏明江田行義宇都宮公綱菊池武俊らは後醍醐帝随行した10月10日出立した義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道進み敦賀目指した。比叡山離れ北へ下向する際、義貞は日吉山王社に立ち寄り先祖伝来鬼切太刀奉納している。 義貞らは13日には敦賀気比社へ到着し気比大宮司気比弥三郎300騎で迎えられ金ヶ崎城入った。『本副寺跡書』によれば、義貞一行近江国堅田まで赴いた後そこから船で海津まで行き敦賀下っていったという。同書によれば、義貞はその道中、堅田足利軍追撃受けた敦賀まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪襲われ多く凍死者を出したことが、『梅松論』や『太平記』記述されている。しかし、義貞一行猛吹雪見舞われた場所が、『太平記』木目峠、『梅松論』は荒芽山となっており、情報齟齬生じている。『太平記』によれば斯波高経待ち伏せをしていた為、塩津から東に向かい板取経由して西へ周り木目峠を越えて敦賀へ至る遠回りな道を選ばざるを得なかったという。この年通年増して寒さ厳しい年であることが樹木年輪から分かっており、降雪にはまだ早い時期ありながら山中積雪降雪著しく、義貞の敦賀までの道程苦難極めた。 義貞らが東へ進路取ったのは遠回りをしたのではなく、その延長線上にある越前国府を目指し、そこを拠点とするためではなかったかという見解もある。しかし、越前国府は既に足利方の斯波高経支配されていたため、西へ進路代え敦賀へ向かうことになったではないか推定されている。 金ヶ崎城入った親王一行は、各地武士尊氏らの討伐促す綸旨送っており、結城宗広送られ綸旨が『結城家文書』に現存している。10月15日、義貞の長男・義顕は越後へ向かう為に出発し、弟脇屋義助瓜生保への加勢向かった。義貞は、北畠顕家連携して足利尊氏対抗するが、北陸地方越後除き新田氏政治力が弱い地域であったため、義貞はその統治苦労した。義貞が越前にて周辺武士らに発給した文書見られない影響力大き寺社勢力と関係を深めた形跡もない。義貞の越前における地盤固め難航したのは、越前国府を押さえられなかったことによる弊害と言われている。

※この「天皇の裏切りと北陸落ち」の解説は、「新田義貞」の解説の一部です。
「天皇の裏切りと北陸落ち」を含む「新田義貞」の記事については、「新田義貞」の概要を参照ください。

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