天皇の裏切りと北陸落ち
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湊川での敗戦の報を聞き、宮方は5月27日に東坂元の比叡山に遷幸する。義貞の軍勢は湊川での敗戦などにより四散して6000騎にまで減少していた。義貞は近江東坂本に本陣を置いた。29日には、足利方によって京都が占領される。6月14日に尊氏は光厳上皇を奉じて京都東寺に入り、後醍醐帝、義貞と睨み合った。以降、6月から8月にかけて、京都を巡る攻防が展開される。6月20日には、足利方の西坂本の総大将である高師久を激戦の末捕らえ、延暦寺の大衆に引き渡して処刑がなされている。 しかし、楠木正成は既に亡く、奥州の北畠顕家も妨害によって加勢に来るのが困難であり、義貞らは劣勢に立たされていた。さらに、この攻防戦の中で、宮方で枢要な地位にいた名和長年、千種忠顕が戦死した。義貞は小笠原貞宗と戦ったり、義貞自身は矢を尊氏のいる東寺へ打ち込み、尊氏に再び一騎討ちを所望して誘い出そうとした。尊氏も奮起してこれを承諾しようとしたが、上杉重能にその軽率を窘められて思いとどまった。義貞は尊氏と雌雄を決しようとしたが、尊氏の首を取ることも京都の奪還も叶わずに終わった。 同時期、尊氏の弟直義は、比叡山、東坂本への糧道を断ち、宮方を追い詰めていった(近江の戦い)。また尊氏は、後醍醐帝との和平工作に着手した。後醍醐帝もこれに応じた。新田一門の江田行義、大舘氏明もこれに応じていた。しかし、義貞には、秘密裏にこの和平工作が行われていたことは知らされていなかった。義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となった。 義貞達がこの和平工作が行われていることを知ったのは、和議を結ぶ為に比叡山を出立して京都に向かおうとするその直前、当日の10月9日であった。義貞は洞院実世から事情を知らされてもすぐに信じることができなかったという。 江田・大舘の行動に疑問を感じていた義貞の部下堀口貞満がこの事情を知って比叡山の内裏にすぐさま駆け上がると、天皇は既に出発直前であった。貞満は鳳輦の轅にすがりついて、「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか」、「新田一族の忠節があるにもかかわらず味方が敗戦続きなのは、帝の徳の不足である」、さらには「新田一族を見捨てて京都へ帰還するのであれば、義貞以下一族50余人の首を刎ねていただきたい」、と目に涙を浮ながらも後醍醐帝の無節操を非難して訴えた。すでに鎌倉幕府の討滅以降、新田一族の戦死者は132人、郎従の戦死者は8000人を超えていた。 それから間もなく義貞達も3000騎を以て駆けつけ、後醍醐帝は新田の軍勢に包囲された。このとき、義貞や貞光をはじめとする新田一族の怒りは爆発寸前であったが、義貞は怒りをどうにかして抑えていたという。後醍醐帝らは義貞や義助らを呼び寄せて新田一族の功をねぎらい、和議を結んだのは「計略」であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐ為だとしたが、貞満の進言で過ちを悟ったと取り繕った。対して義貞は妥協案として、自分に恒良親王、尊良親王を推戴させて、北国へと下向させてほしいと提言した。義貞の軍勢が後醍醐帝を包囲したことは、クーデターである可能性もあるとも解釈されている。義貞の提言の結果、宮方は北国へ向かう義貞、恒良親王、尊良親王の軍勢と、後醍醐帝に付き従う軍勢の二つに分裂した。 後醍醐帝による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いもある。しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことだけは確かである。新田一族の大半、洞院実世、千葉貞胤、宇都宮泰藤は義貞に随行したが、大舘氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武俊らは後醍醐帝に随行した。 10月10日に出立した義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み敦賀を目指した。比叡山を離れ北へ下向する際、義貞は日吉山王社に立ち寄り先祖伝来の鬼切太刀を奉納している。 義貞らは13日には敦賀の気比社へ到着し、気比大宮司の気比弥三郎が300騎で迎えられ、金ヶ崎城に入った。『本副寺跡書』によれば、義貞一行は近江国堅田まで赴いた後そこから船で海津まで行き、敦賀へ下っていったという。同書によれば、義貞はその道中、堅田で足利軍の追撃を受けた。敦賀まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出したことが、『梅松論』や『太平記』に記述されている。しかし、義貞一行が猛吹雪に見舞われた場所が、『太平記』は木目峠、『梅松論』は荒芽山となっており、情報に齟齬が生じている。『太平記』によれば、斯波高経が待ち伏せをしていた為、塩津から東に向かい、板取を経由して西へ周り、木目峠を越えて敦賀へ至る遠回りな道を選ばざるを得なかったという。この年は通年に増して寒さが厳しい年であることが樹木の年輪から分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、山中の積雪、降雪は著しく、義貞の敦賀までの道程は苦難を極めた。 義貞らが東へ進路を取ったのは遠回りをしたのではなく、その延長線上にある越前国府を目指し、そこを拠点とするためではなかったかという見解もある。しかし、越前国府は既に足利方の斯波高経に支配されていたため、西へ進路を代え、敦賀へ向かうことになったのではないかと推定されている。 金ヶ崎城に入った親王一行は、各地の武士へ尊氏らの討伐を促す綸旨を送っており、結城宗広に送られた綸旨が『結城家文書』に現存している。10月15日、義貞の長男・義顕は越後へ向かう為に出発し、弟脇屋義助は瓜生保への加勢に向かった。義貞は、北畠顕家と連携して足利尊氏に対抗するが、北陸地方は越後を除き、新田氏の政治力が弱い地域であったため、義貞はその統治に苦労した。義貞が越前にて周辺の武士らに発給した文書は見られない。影響力の大きい寺社勢力と関係を深めた形跡もない。義貞の越前における地盤固めが難航したのは、越前国府を押さえられなかったことによる弊害だと言われている。
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