城北中学校設立
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「岡崎市立城北中学校」の記事における「城北中学校設立」の解説
1957年(昭和32年)12月、文部省は「勤務評定試案」を正式決定し、勤評全国実施に踏み切った。1958年(昭和33年)4月22日、「勤務評定阻止全国統一集会」が開かれるが、岡崎市小中学校教職員組合(岡教組)は600人を動員。同組合員は愛教組の指令により、7月3日から胸に「勤務評定反対」のリボンをつけて登下校し、市民に反対を呼びかけ、署名運動を行った。 岡教組は1960年(昭和35年)の安保闘争でも多数のデモに関わった。強行採決に抗議して5月26日に行われた地区総決起大会には教員230人が参加し、籠田公園からのジグザグ行進を先導した。三河地方において岡崎は闘争の拠点の一つとして広く知られるようになった。 こうした動きに頭を悩ませていた愛知県教育委員会は組合つぶしを図り、1961年(昭和36年)に新設する中学校の校長に県教委教職課主事の鈴村正弘を送り込んだ。また、日教組に反対の教員を多数配置した。それが岡崎市立城北中学校だった。 1962年(昭和37年)、鈴村は岡崎市の全中学校の生活指導部長に就任すると、自校を市内中学校のモデル校とするため、画一化に重きを置いた指導と統制を行った。男子生徒全員に夏休みまでに丸刈りにするよう厳命し、女子はおかっぱとした。下駄箱の靴のかかとのそろえ、始業前一分間不動、掃除などの作業の黙働、暁天かけ足、部活動全員強制参加、夜10時以降の家庭学習見回り、休日の制服強制、遠足の弁当の統一(おにぎりのみ)などがこの年から一気に開始された。鈴村はわずか3年間で城北を愛知県の成績トップクラスの中学校に仕立て上げ、のちに城北中は「チリ一つ落ちてない日本一のモデル校」と呼ばれるようになった。 それとともに市議会議員を饗応し、料亭で芸妓をはべらすなど運動を盛んに行い、1972年(昭和47年)、ついに岡崎市教育委員会教育長のポストを得た。1970年代以降、愛知県では管理教育が猛威を振うが、鈴村は徹底した派閥人事を敷くことで教員をも支配した。 森信三に心酔していた鈴村は、著書や機関誌を部下に購読させ、森を「城北教育の父」と呼ばせた。1976年(昭和51年)9月、城北中学の教職員は『学校づくり120話』を刊行。教員の一人は森について、「読書会で読み、学年会で読み、教科部会で読む。迷ったときに読み、うれしいときに読む。議論の初めに先生が出る。議論の途中に先生が出る。議論の終わりに先生が出る。わたしたちは、先生の名前をお呼びすることによって、体の痺れるような感動を覚える」と綴るほどであった。 1980年(昭和55年)2月26日付の朝日新聞紙上で、岡崎市立甲山中学校の卒業生が学校に対し、常識を超えた体罰を行うY教諭をやめさせてほしいと請願書を出していたことが報道された。請願が出されたのは1976年(昭和51年)8月。その年の3月に卒業した生徒たちはどこに訴えを持っていいのか分からず、やむをえず県教育委員会に提出していた。この報道内容は1980年3月の市議会定例会で問題化され、八田廣子市議と鈴村の間で次のようなやりとりがなされた。 八田廣子 昭和52年にも、それ以前にも私たちはこの議場で、先生の暴力を指摘し、その指導改善を要望してきた。一体いまに至ってもこういう事態があるというのはどういうことか。こういう教育を教育長はよいとお考えなのか。鈴村正弘教育長 暴力は法によって禁止をされている事項であり、よくないということは自明のことである。しかし教師、生徒双方の現在並びに将来のことを考えて、この件の詳細の事情を発表することはいかがかという見解をもっているので、申しわけないが詳細についての発表は控えさせていただきたい。 — 岡崎市議会 昭和55年3月定例会 03月12日-03号。 こう言って鈴村は切り抜けたが、それから3か月後、岡崎市は大規模な選挙違反事件に見舞われる。
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