制作の動機と期間
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藤田はアッツ島玉砕をテーマとした絵画を2つ制作している。『アッツ島玉砕』と、1943年秋の靖国神社臨時大祭に合わせて陸軍美術協会が発行した小冊子『靖国之絵巻』に掲載された『アッツ玉砕 軍神山崎部隊の奮戦』である。ともに1943年の8月から9月にかけて、ほぼ同時期に描かれたと推定されているが、双方の作風には大きな差が見られ、『アッツ玉砕 軍神山崎部隊の奮戦』の方は誇張された表現が目立つ、とっくみ合いを描いたかのような作品である。 これまで『アッツ島玉砕』は藤田が自主的に制作を進め、陸軍に献納したものと考えられてきた。藤田は『アッツ島玉砕』を陸軍ではなく秋田県在住の支援者、平野政吉に寄贈する予定であったとの話も伝わっている。『アッツ島玉砕』は1943年9月、東京都美術館で開かれた「国民総力決戦美術展」で公開され、同月下旬からは北海道各地と青森市、岩手県盛岡市を巡回した。藤田は東京会場で絵の横に立ったほか、巡回に合わせて北海道を訪問。その帰途、秋田へ立ち寄って平野に三度面会した。藤田は平野に日本の敗戦が必至であると語っていた。平野は、画家として藤田に弟子入りしていた末弟の弘を戦争で失っていたほか、藤田の美術館をつくろうと構想しており、弘の慰霊もあって『アッツ島玉砕』を秋田に置こうとしていたというのが、村上昌人(平野政吉美術財団理事)の見解である。 しかし1943年8月19日付の木村荘八宛の手紙の中で、藤田は1944年開催予定の陸軍美術展へ出展するために陸軍から依頼されたとしている。陸軍としては戦争画制作で実績がある藤田に依頼することで、玉砕したアッツ島守備隊の顕彰、神格化を進め、国民の戦意高揚に役立てようとしたものと考えられる。藤田が『アッツ島玉砕』の制作を手掛ける1943年夏には、前述のように宣伝の効果によって世論は玉砕したアッツ島守備隊を神格化していた。そのような世論の動向を注視しながら、藤田は絵画制作を進めていくことになる。 藤田は現地のアッツ島に行ったことはない。またアッツ島守備隊員は玉砕しているため、部隊や戦闘に関する写真、映像資料は極めて限定された状況下で制作が行われたものと考えられている。アッツ島についての写真や映像資料は、陸軍報道班員でアッツ島で約2か月間撮影に従事した杉山吉良から提供されたとの証言がある。藤田は1943年9月の札幌訪問時、北海道新聞社で、軍の嘱託としてアッツ島に渡った経験がある彫刻家加藤顕清から現地の植物や気候風土などについて、軍からは突撃戦法について学んだことを語っている。加えて藤田はこれまで蓄積してきた人物デッサンのスタイル、画面の構成力を駆使し、更に戦闘を描いた西洋美術の古典作品を参考にしながら制作を進めた。実際の制作過程では最初に全体的な構想を練り、それから相互関係を考えながらそれぞれの事物の配置を決めると、すぐに各事物の詳細な描写に取り掛かった。 前述の木村荘八に宛てた手紙の中で藤田は、7月22日から外出を一切せずにアッツ島での玉砕とソロモン海海戦の絵画制作に没頭していると書いている。新聞報道の中で藤田は『アッツ島玉砕』を、8月初旬から描き始め、アッツ島守備隊の月命日にあたる8月29日に完成させたと語っている。2作を同時並行で制作していることを考慮すると、アッツ島玉砕は正味半月程度の制作期間で完成したと考えられている。『アッツ島玉砕』制作は、藤田が描いた戦争画の中でも速いものの一つであった。 木村への手紙の中で、藤田は画室に閉じこもり、招待もすべて断り、映画を見にも行かずに描き続けたとしている。また「どうかして私は一生の中、これより描けぬと言う、すっかりの力を出した画を一枚でもいいからかいて見たいと思ってます」とも語っていた。新聞も面会謝絶の上、斎戒沐浴して毎日12時間から13時間、ぶっ通しで描き続けたと報道している。また別の新聞報道によれば、藤田は自分が描いている『アッツ島玉砕』のあまりの物凄さに我ながら怖くなって線香をあげたと語っており。また完成後、ろうそくの明かりのもとで線香をあげてアッツ島守備隊員の冥福を祈ったところ、絵の中央部に描かれている山崎部隊長や他の兵士らが藤田に笑いかけたとの逸話も残っている。 藤田が『アッツ島玉砕』を完成させた8月29日、山崎保代守備隊長と守備隊に感状が出され、山崎守備隊長は2階級特進して中将に進級したことが報道される。30日の新聞では山崎を軍神と称揚する記事が掲載される。このような中で藤田は、報道陣に絵の完成を公開し、8月30日には陸軍省に絵の献納手続きを済ませ、8月31日の新聞各紙は藤田の『アッツ島玉砕』の完成を報じた。そして9月1日から開催された「国民総力決戦美術展」に『アッツ島玉砕』が出品された。これは翌1944年の陸軍美術展出展予定であったものを早めたことになる。完成した『アッツ島玉砕』は、藤田が壁画制作を開始した1920年代後半以降取り組んできた大画面における群像表現の到着点であった。
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