初期の政治体制と政情とは? わかりやすく解説

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初期の政治体制と政情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:10 UTC 版)

阮朝」の記事における「初期の政治体制と政情」の解説

阮朝現在のベトナム社会主義共和国ほぼ等しい領域支配した最初統一王朝だった。それゆえ当初性急な集権化行わず現在のハノイ中心とした北圻には北城中国語版)総鎮を、嘉定中心とした南圻(仏領コーチシナ相当する地域)に嘉定城(中国語版)総鎮(ベトナム語版)をそれぞれ置いて大幅な自治権認めた阮朝は、自国のことを「中国」(チュンクォック、ベトナム語:Trung Quốc / 中國)と呼び世界中心に位置する称して自国と清は兄弟であり対等国家見なしていた。そして北にある清を「北朝」、自国を「南朝」と呼んだ阮朝君主は、清と同じ「皇帝」「天子」の称号用い、清以外の国(フランスイギリスシャムなど)と自国の民に対しては「大南国大皇帝」を称した。しかし大南国大皇帝使節は清の皇帝の前では「越南国王」の代理人として朝貢した。カンボジア英語版)、ラオスビルマなどが軍事援助求めて使節送ってくると、阮朝はその使節自国の徳を慕ってやって来た「属国」とみなし、自国が「中国」であることを正当化した阮朝は、これらの「属国」に囲まれ優越感宗主意識持っていた。 1815年嘉隆律例(中国語版)が発布され、清を基範とした制度導入された。第2代皇帝明命帝在位:1820-1841)の治世、特に1830年代に入ると清の制度倣った中央集権化推進され科挙制度や省区分地方制度整備された。このような集権化政策北部・南部双方反発招き北部では後黎朝皇孫称する黎維良(中国語版)の乱、南部では嘉定城総鎮であった黎文悦(中国語版)の養子黎文𠐤(中国語版)による反乱英語版)(1833年 - 1835年)など、大規模な反乱繋がった。また対外的には建国の際に後ろ盾となったシャムとの関係が悪化しカンボジアラオスめぐって泥沼戦争態となった。内乱鎮定できたものの、カンボジア・ラオスの情勢基本的にシャム有利に推移し版図最大達したものの国は大い疲弊し、その痛手から回復できないままフランスの侵攻を受けることとなる。 産業革命経験したヨーロッパで通商貿易拡大求めアジア市場進出17世紀初めに通商求め使者訪問している。阮朝成立直後1804年イギリス使節J・Wロバーツ通商関係改善求めて沱㶞に来航し1832年にはアメリカ合衆国からの使節来航しているが、これを拒絶している。西山朝との戦いの際にピニョーらの支援受けていたため、当初フランス人優遇しキリスト教保護していた。功臣の黎文悦もキリスト教徒であった1799年ピニョー死後フランス革命ナポレオン戦争影響で、しばらく越仏間交渉がなかった。ナポレオン戦争終了後フランス通商関係求めて越南使者派遣している。嘉隆帝建国功績認めフランス人優遇していたが、通商要求に対して一貫して拒否していた。1815年嘉隆律例発布以来儒教的統治理想とするようになった阮朝は、祖先崇拝否定するキリスト教違和感有するようになった1820年明命帝即位すると清のものに基づいた支配体制整備され儒教比重が高まるにつれて排外的な傾向現れるようになったキリスト教禁止して弾圧実施され排外政策転じた。さらにフランス人冷遇するようになり、次第フランス人対す優遇措置認められなくなって越仏関係を悪化させた。1824年には建国の際の功績者であるフランス人ジャン=バティスト・シェニョー(英語版)(阮文勝)が帰国命じられた。1826年には開国求めフランス軍艦の艦長との引見拒否同年にはシェニョーの甥ウジェーヌ・シェニョー(Eugène Chaigneau)が領事資格で訪越したがこれも拒否し、越仏の公的関係は一時中断した。黎文𠐤の乱で多くキリスト教徒多数参加していたことからキリスト教への弾圧激しくなり、1836年にはピエール・デュムーラン=ボリー英語版)ら7名のヨーロッパ人宣教師逮捕され1838年処刑された。数百教会破壊され弾圧恐れた数万民衆山野逃れている。その後アヘン戦争によるヨーロッパ諸国軍事力恐懼した阮朝は、キリスト教への弾圧緩和した1834年には第一次泰越戦争英語版)の結果カンボジアトンレサップ湖以南地域支配下に置き史上最大版図記録した1841年即位した紹治帝治世になると、投獄していた宣教師フランス軍艦に引き渡している。しかし、頑なな鎖国政策変更はなく、1847年来航したフランス軍艦が国書伝達請求したが、これを拒否。さらに海上防備固めついにはフランス軍艦の砲撃開始され、沱㶞港で大南艦船5隻が撃沈される武力衝突発展したダナン戦い英語版))。この武力衝突阮朝態度硬化させた。 1847年即位した嗣徳帝キリスト教弾圧強化1851年から1857年にかけてフランススペイン人宣教師斬首刑処したフランス皇帝ナポレオン3世1857年にシャルル・ド・モンティニー(英語版)を派遣し事態善後策協議するものの交渉失敗外交交渉での解決断念したフランスは、スペイン連合して大南への武力侵攻決意した

※この「初期の政治体制と政情」の解説は、「阮朝」の解説の一部です。
「初期の政治体制と政情」を含む「阮朝」の記事については、「阮朝」の概要を参照ください。

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