初期の政治的議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:27 UTC 版)
「アルバロ・ウリベ」の記事における「初期の政治的議論」の解説
批評家はウリベの父親がFARCに殺害された1983年にアルバロ・ウリベの背景に麻薬王の一人でまた実際に準軍組織の雇い主の一人でもあったファビオ・オチョア・レストレポとの個人的な関係があったことを調査した。幾人かはウリベの父もそれらに参画していたことを示唆した。ウリベ自身とウリベの支持者は麻薬取引への直接的関与を否定するもののオチョア家とその組織との関係を持った経緯について語ろうとしない。 批評家はさらにウリベの文民航空局長時代についても麻薬密売人が飛行機のライセンスを取得し滑走路の使用を阻止する手立てを何も採らず、さらに国際的に活動する許可を与えたと批判する。ウリベの支持者はそれらの防止や起訴はウリベの事務の管轄外で、公式の法執行当局が責任があったと主張する。 別のよくある批判はウリベがメデジン市長時代から上院議員時代までパブロ・エスコバルとの個人的な友人であったことに関してである。批評家のうちには以前はウリベが資金提供を受け、受動的に麻薬取引に関わっていたとみるものもいる。ウリベ自身はこれを強く否定しているが、個人的な関係については未だ公式に否定していない。 別の観察者やウリベの支持者は「実際に麻薬カルテルからの反攻の結果(死、誘拐、逃亡)に直面せずに支配することを望んだ政治家であっても、麻薬カルテルとの限られた受け身のつき合いは避けられなかった」として、「メデジン市長、上院議員、アンティオキア知事といったウリベの1980年代及び1990年代の政治的地位に注意すべき」としている。上院議員時代のウリベが麻薬商人の引き渡しに反対したと考えられることの意味合いについても議論の対象になっている。「非常に強力なカルテルに対処する際に部分的に懐柔的な姿勢が1980年代と1990年代前半の間には必要だった」と多くの政治家が主張している。 ウリベはそういった者の送還に反対したことはないと主張しているが、「麻薬王からの可能なかぎりの干渉を制限するため」としてその件で次の1990年の国政選挙の後まで決断を延ばすことを支持した。大統領執務室からの公式声明は続けて「この立場は1989年の議会文書と報道発表によって照会できる」と述べた。 この例として、セサル・ガビリア大統領時代のコロンビア制憲議会で、メデジンの警官50人の暗殺、『エル・ティエンポ』紙の爆破、国際線のハイジャックなどの後にカルテルメンバーの引渡しを停止したことを挙げている。前身がコロンビア内戦時の左派ゲリラの M-19 が、他のゲリラグループとともに、このとき政党化しており、(主な引き渡し先である)アメリカの内政干渉に応じる必要はないとの考えから引渡しに反対した。 批評家はまたCONVIVIRへの支援によりウリベが事実上の準軍組織の同盟者になったと考える。しかし、今までにこの件に関して如何なる告発も特定の証拠も、如何なる裁判所の前にも法的に提示されたことがない。ウリベ支持の観察者は「CONVIVIRは結果的に失敗し法的な指揮を失ったが、ペルー等の他国で実行され成功した合法的なプログラムの拡張になるはずだった」と主張した。
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