僧侶時代
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1945年(昭和20年)に京都の青蓮院で得度、1952年(昭和27年)に善光寺大勧進の住職に就き、1953年(昭和28年)に青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽と称し、長らく門主の地位にあった。1956年(昭和31年)、「飛鳥時代の芸術研究」によって京都大学から文学博士の学位を授与される。1985年(昭和60年)より終生、京都仏教会会長を務めた。 1982年(昭和57年)には、文化観光税(文化観光施設税、文観税)の復活に関する議論を発端として、古都保存協力税問題(古都税問題)が起きる。同問題では、古都税の創設を目指す京都市とこれに反対する京都府仏教会・京都市仏教会(後に統合して京都仏教会)が衝突して深刻な対立抗争を繰り広げ、ついには多くの寺院の拝観停止や行政訴訟の提起にまで至った。この間、慈洽は、1984年(昭和59年)に京都市仏教会の会長に就任し、翌1985年(昭和60年)には新たに統合設立された京都仏教会の初代会長に就任して、理事長の松本大圓・清水寺貫主や常務理事の有馬賴底・鹿苑寺責任役員、大島亮準・三千院執事長、清瀧智弘・広隆寺貫主らとともに、古都税反対運動の先頭に立ち指導に当たった。同問題は、1988年(昭和63年)3月末限りで古都税を廃止することで収束した。 1995年(平成7年)、喉頭癌の手術により声を失った。青蓮院が属する天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立し、一時は教団離脱をほのめかして教団に圧力をかけ、ついには世襲を認めさせた。 2004年(平成16年)2月、青蓮院の執事長であった次男の慈晃に門主の地位を譲り、自身は名誉門主に就いた。2006年(平成18年)4月、起立性低血圧症を発症し、以後寝たきりの生活を余儀なくされた。2009年(平成21年)9月30日に妻の保子が死去した。2010年(平成22年)5月16日、100歳を迎えた。2013年(平成25年)には叔父にあたる東久邇宮稔彦王の存命記録を抜き、臣籍降下をした記録の確かな元皇族の中では歴代最長寿となった。2014年(平成26年)1月1日、死去。103歳没。
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僧侶時代
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1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。東京帝国大学では、井上哲次郎と波多野精一から哲学、姉崎正治から宗教学を学ぶ。 在学中は、「明治の親鸞」といわれた真宗大谷派僧侶近角常観が、青年の信仰教育のために東京本郷で主宰していた求道学舎に懇願して入り、大学の三年間と大学院の一年の四年間教育を受け、深い感化を受けた。 一方でキリスト教に触れ聖書を読み始めた。日曜日にのぞいた本郷の救世軍小隊で山室の説教「祈祷の力」を聞いて感動を受け、東京を去るまでの一年間、日曜の午前中は近角の話、午後は山室の話を熱心に聞き続けた。
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