七十回本:金聖歎による腰斬
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「水滸伝の成立史」の記事における「七十回本:金聖歎による腰斬」の解説
一方の七十回本は、金聖歎が著した比較的新しい文繁本である。明末の崇禎14年(1641年)に出版されている。 李卓吾が『水滸伝』を称揚し宋江を忠義の士と評価したのに対して、金聖歎は『水滸伝』そのものは高く評価するものの、宋江は盗賊であるにもかかわらず善人ぶる偽善者の最たる者と軽蔑した。金聖歎は盗賊が朝廷に帰順して功を上げるという筋立ては無知な人々による安易な模倣を招き、盗賊行為を助長するとして徹底的に批判。そのため、招安以後の梁山泊軍が朝廷に帰順して遼や他の賊を征伐する部分は、羅貫中が後から創造した虚偽であるとし、自ら所持する古本を復刻することで施耐庵の本意を再現すると称して、百二十回本の後半第72回以降(第III部分以降)をすべて削除した。もちろんそんな古本は実在せず、金聖歎自らが書いたものである。金聖歎が施した主な改変は以下の通りである。 百二十回本の第72回以降をすべて削除し、招安以降を無かったことにした。 全71回では不自然なため、第1回を楔子(プロローグ)とし、第2回以降を前にずらし、第71回を第70回とした。 梁山泊に108人が結集した直後、全員が斬罪になるという盧俊義(梁山泊の副頭領)が見た夢で話が突然終了する。 物語の進行上に関係しない、無駄な美文や詩を削除した。 施耐庵の原序なるものを創作して付け加えた。 自らの価値観に基づく批評を大量に挿入したり、部分的に文章を技巧的なものに書き改めた。 金聖歎が本文中に挿入した批評は、自ら改作した部分を褒め称える自画自賛も多く、また宋江が「忠義」と発言するたびに「権詐」「奸詐」と注釈を入れるなど、露骨な依怙贔屓の傾向が強い。金聖歎は登場人物をランク分けし、呉用・関勝・林冲・花栄・魯智深・武松・楊志・李逵・阮小七らを「上上」の人物として評価する一方、戴宗・楊雄らを「中下」、宋江・時遷を「下下」と評した。宋江は百二十回本でも偽善者的傾向が若干鼻につく造形であるが、七十回本ではそれがさらに強調して描かれ、さらに金聖歎の注釈でそれが酷評されるという自作自演的な記述も見られる。こうした増補の結果、文章量はむしろ百二十回本よりも増え、文飾や後半部を丸ごと削除したにもかかわらず、従来の版本よりページ数が多いほどであった。 このような金聖歎の大胆な改変は賛否両論が激しく、特に結末にいたる後半部分を削除した点を否定派は「腰斬」と批判した。ただしそれ以前から『水滸伝』後半部分は前半と比べると甚だ興趣が劣り、文章も精彩を欠くため、退屈と感じていた読者も多く、また金聖歎の批評も過激ながら人々の共感を呼んだこともあり、徐々に受け入れられていくようになっていった。幸田露伴は「金聖歎は百二十回を七十回で打ち切ってけしからぬことをした」「聖歎の批評は自分の言いたい三昧をならべたもの」「聖歎を良い批評家だと思ったり、聖歎本で水滸伝を論じたりなんぞしてゐるのは、おめでたい話」と七十回本とそれを高く評価する者を厳しく批判する一方で、「後半で人気のある人物が死ぬ描写を削ったのは、読者にとって好ましいことだった」とも評価する。また周作人は金聖歎の批評によって、水滸伝がより面白くなったと評価し「白キクラゲとスープを一緒に飲むようにうまい」といい、正岡子規も「これがために本文に勢がついてくる」と高く評価している。次第に七十回本は他の版を凌駕するようになっていった。 ただし、水滸伝の影響を受けて清代前期に著作された『水滸後伝』(陳忱によって康煕3年(1664年)に書かれた『水滸伝』続篇の一つ。後述)『説岳全伝』(銭彩・金豊ら作。康煕23年(1684年)成立。後述)などが、百回本を元にして作られている形跡が認められることから、この時期にはまだ七十回本はそれほど隆盛していなかったことが推定される。いっぽう乾隆57年(1792年)に『続水滸征四寇全伝』と称する、七十回本で削除された後半41回分にあたる部分を文簡本から単独で抜き出した書物が出版されている。これは七十回本の「盧俊義の夢」という唐突な終了に違和感を覚える声が多かったことから、それに応えて本来の後半部を単独で出版したものであり、このことから逆に、この時期すでに七十回本が標準的な地位を得ていたことが分かる。清代中期の乾隆年間(1736年 - 1795年)後期あたりから、次第に七十回本が他の版本を淘汰していったと思われる。この時期の後、兪万春(1794年 - 1849年)によって書かれた『蕩寇志』(『水滸伝』続篇の一つ。後述)が、いきなり第71回から始まる構成で金聖歎本の続きとして書かれていることからもうかがえる。この後七十回本は中華民国時代にかけて地位を独占し、他の版本の存在が忘れ去られるほどになったという。民国18年(1929年)には、鄭振鐸が『水滸伝的演化』の中で「金聖嘆の七十回本は他のあらゆる文繁本・文簡本を葬り去ってしまい、『水滸伝全書』(百二十回本を指す)なるものが存在することを300年もの間、覆い隠してしまった」とまで評した。
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