和林檎
和林檎
ワリンゴ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/27 20:44 UTC 版)
ワリンゴ(和林檎、学名:Malus asiatica)は、バラ科リンゴ属の植物[1](果樹)とその果実(リンゴ)。ジリンゴ(地林檎)とも呼ばれる。
- ^ “PLANTS Profile for Malus ×asiatica”. USDA. 2009年12月27日閲覧。
- ^ a b c d e 【地域力】彦根市(滋賀県)幻の和りんご広めたい 商品開発やサミット/江戸時代 供え物として珍重 読売新聞オンライン(2021年10月14日配信、本文閲覧は会員限定/朝刊北海道版では2021年10月19日掲載)
- ^ “Malus asiatica in Flora of China”. efloras.org. 2011年1月4日閲覧。
- ^ “一押し旬の話題 ワリンゴ(和リンゴ)”. 果樹研究所. 独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構. 2014年11月9日閲覧。
- 1 ワリンゴとは
- 2 ワリンゴの概要
ワリンゴ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:01 UTC 版)
ワリンゴが日本へ最初に持ち込まれたのは中国からと推定されるが、西洋リンゴが西洋から持ち込まれると日本でも西洋リンゴの方が一般的になり、それまでの種は「和リンゴ」などと呼ばれて区別された。 平安時代中頃の書物『和名類聚抄』には「利宇古宇(りうこう/りうごう)」としてリンゴが記述されており、これが訛って「りんご」になったと考えられている。地域によっては「リンキ」という古名も伝わる。 戦国時代に、近江国(現在の滋賀県)の戦国大名であった浅井長政は、領内の木之本の寺から届けられたリンゴに対する礼状を同寺に届けており、この書面は現存している。他にも、安土桃山時代の出羽国(現在の山形県)の大名であった最上義光の家臣の北楯利長が、主君の義光に鮭とリンゴを贈ったことが、義光から北楯への文書(礼状)から判明している。 江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の絵にリンゴの花が描かれるなど、実よりはどちらかといえば花が珍重されていたこともあったが、およそ食用として各地域に伝承されていた。また、仏前の供え物として多用された。天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した御所千度参りと呼ばれる事件の際、京都市中に溢れ返った3万から7万人ともされる人数に対し、後桜町上皇からは3万個のリンゴが下賜配布された記録がある。当時、権力の中枢とはいえず、裕福でもなかった皇室が即座に3万個ものリンゴを放出した記録により、基本的に食用ではなく仏事用であるとしても、大規模な栽培・集荷・流通が行われていたことが分かる。 後に和リンゴの栽培・流通は極少数となったが、例えば長野県上水内郡飯綱町では、わずかな農家が栽培してその姿を伝えている。この和リンゴの実は、大きさ直径3 - 4 cm、重さは30 gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存する和リンゴや野生種を調査し、数十種類の木(数百本)を育て、収穫した果実はお盆に各地の寺社に奉納している。同じ滋賀県で前述の浅井長政ゆかりの木之本などでも復活・保存の動きがある。
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