レステル夫人の公判
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1840年に、マリア・パーディ(Maria Purdy)という患者が妊娠中絶の処置をつうじて結核にかかったとしてレステルを訴えた。報道はレステルを「ヒトの形をした怪物」("the monster in human shape")と呼んだり、彼女を神に反している行為で非難したりして、彼女に対する口頭誹毀が噴出した。レステルはだれでも彼女の方法が危険であると証明し得るひとには金銭的補償を約束したし、彼女は最初、有罪と評決を下されたいっぽうで、彼女の逆転された上訴は評決と言われた。彼女の、世論との不安定な関係は続いた。 メアリー・アップルゲート(Mary Applegate)は、未婚の女性、情婦で、彼女は彼女の不義の恋人によってフィラデルフィアからレステルに遣られた。父親はレステルが赤子を養子縁組にだす手はずをとっていた。アップルゲートがこのことを知ったのは、彼女がフィラデルフィアに戻り、前の恋人に冷たくあいさつされてからであった。アップルゲートはそれからレステルのもとに戻り、子供に会いたいと求めたが、しかしレステルはその幼児のことはなにも知らないと主張した。レステルはただちに『New York Medical and Surgical Reporter』のような刊行物において報道によって悪漢として描かれた。 1841年に、メアリー・ロジャースがハドソン川で遺体で見つかった。新聞諸紙は、彼女はレステルによって実行された妊娠中絶のあいだに死亡したのではないかと提言した。 妊娠中絶はまもなく1845年にニュー・ヨーク州によって非合法化された。この法律は、これ以前の複数の法律を10年前からさらに制限した。母親の死亡に終わった、あるいは「胎動初感」("quickening")ののちに実行された、妊娠中絶は、第2級故殺であった。法律への新たな追加は、妊娠中絶薬を売るあるいは妊娠期間のどの段階であれ妊娠中絶を実行することを、軽罪とした。そのうえ、妊娠中絶をさがしもとめた、あるいは自分の妊娠中絶未遂をおこした女性は1000ドルの罰金を科せられた。妊娠中絶はわいせつな主題として法律で定義され、もはや新聞で報道されなかった。女性はもはや妊娠中絶を自由に議論することを許されなかった。レステルは、月経を規則正しくする方法として自分の業務を広告することによって、法律義務手続きを避けて通った。 1847年に、妊娠中絶を実行したとしてレステルは訴えられ、これが有罪判決につながった。 しかしながら、この有罪判決は「あまねく大声で熱烈に歓迎され」("universally hailed")、そして公判の報道は、内科医らによって実行される営利目的の妊娠中絶をめぐる議論をうながした。さらにそのうえ、犠牲者らが典型的に「貧しい、教育のない女性」("poor, uneducated women")であることが注目された。マリア・ボーディン(Maria Bodine)は、妊娠中絶を受けるように主人によってレステル夫人のもとに遣られた。レステルは、マリアは妊娠中絶するには週数をすぎていると決定したが、しかしマリアの主人は言い張った。結局、彼はレステルに大金を支払い、そして彼女はマリアの妊娠中絶を実行することを了承した。マリアはそれからメイドとしての仕事に戻った。彼女は病気になり、そして医師を訪れるやいなや、妊娠中絶を認めざるをえなかった。レステルは公判に付された。審理のあいだ、レステル夫人の弁護側はボーディンを「身持ちの悪い」("loose")女性として描き、いっぽうマリア・ボーディンの弁護士らはレステルに神を信じない無能力な女性の役を振り当てた。レステルは敗訴し、そして軽罪とブラックウェル島での収監1年を課された。 レステル夫人は刑期を終えたのち、仕事を再開した。彼女は外科的妊娠中絶をすっかりやめ、努力を丸薬や下宿屋に集中した。1854年にレステルはアメリカ合衆国の市民権を申請し、認められた。1854年の或る約束不履行事件で提出された証拠は、レステルと彼女の夫がこのとき50ドルないし100ドルを課されていることを示唆している。1845年の法律よりも前に、レステルは社会階級に応じたスライド制で患者らに請求した。レステルのもっと裕福な患者らの多くは、1000ドルの割増金を課された。レステル夫人は自分の仕事を昔に戻すいっぽうで、報道は彼女の評判を残りに任せなかった。彼女は「ニューヨークきっての邪悪な女性」("The Wickedest Woman in New York")とあだ名を付けられた。 1855年に、ドイツ移民フレデリカ・メディンガー(Frederica Medinger)は、子供の出産までの室を懇願しながらレステルに接近した。メディンガーによれば、レステルは彼女に出産時に6錠の丸薬を与えた。出産したその日に、メディンガーが子供に会いたいと言うと、レステル夫人から子供は姿を消したと聞かされた。夫人は誘拐と過度の貪欲さで訴えられた。レステルが法廷に連れてこられたとき、メディンガーは現われなかった。レステルは、彼女が訴えを取り下げるように支払ったと推定したひとは多かった。レステルは追放され、そしてこの女性と赤子の話は決して聞かれなかった。子供はレステルによって養子縁組にだされたと推定されている。 レステルおよび彼女のニューヨークでの開業にたいするさまざまな反応は、アメリカ国内の妊娠中絶にたいする全般的な態度を反映していた。ボストンやフィラデルフィアのような都市の巡回販売員は、彼女の金融的成功について聞き、同様な利益を利用しようと丸薬を売った。自分自身の法律問題の前に、レステルは、フィラデルフィアとマサチューセッツのローウェル(Lowell)の妊娠中絶医の話 - 国民的な規模での実施にたいする高まりつつある反対の兆候 - を聞いた。同様ないち事例はドクター・ジョン・スティーヴンス(Dr. John Stevens)のそれで、彼はギャラハー(Gallagher)という若いボストンの女性の妊娠中絶を実行した内科医であった。彼女の死亡は、この危険度の高い手術の結果であり、スティーヴンスを謀殺で訴えることをうながした。 南北戦争は多くのアメリカ人を妊娠中絶論争から注意をそらしたけれども、その結末は一部の内科医を反-妊娠中絶運動にもどらせてくれた。 「彼らの主張では、胎芽は受胎の時点から生きているから、妊娠中絶は - 母親が胎動初感を感じたか否かにかかわらず - 謀殺であった」("Since the embryo, they argued, was fully alive from the point of conception, abortion at any point in time—regardless of whether the mother had quickened or not—was murder pure and simple") 一部の内科医は、明確な倫理的な姿勢で問題に臨むいっぽうで、また一部は、自分らの運動が、訓練されていない内科医が刑罰を科される見込みを高め、それによって潜在的可能性を生み出し、活動家じしんの職業的なゴールを前に出したと考えた。 レステル夫人は財産をたくわえていた。彼女は数筆(すうひつ)の土地を所有し、うち1筆は贅沢な大邸宅が特徴であった。彼女は立派なウマ、馬車、絹のドレスを持っていた。南北戦争が、レステル夫人に、業務的に立ち直るために必要なかくれみのをあたえた。レステルは1回収監され、いくたびも訴えられたけれども、無傷のまま姿をあらわした。
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