ミッドウェー海戦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 06:12 UTC 版)
「嵐 (駆逐艦)」の記事における「ミッドウェー海戦以後」の解説
詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 5月1日、本田大尉(嵐水雷長)を嵐航海長へ、谷川清澄大尉(嵐航海長)を嵐水雷長にする人事が行われた。6月上旬、嵐はミッドウェー作戦に参加する。第4駆逐隊(第1小隊《嵐、野分》、第2小隊《萩風、舞風》)は機動部隊警戒隊(指揮官木村進第十戦隊司令官:警戒隊旗艦/十戦隊旗艦長良、第10駆逐隊《風雲、夕雲、秋雲、巻雲》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)に編入され、南雲機動部隊の主力空母4隻(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》)の直衛としてアメリカ軍と交戦する。空母4隻は輪形陣の中央で一辺8000mの正方形を形成し、右列(赤城/嵐、加賀/萩風)、左列(飛龍/野分、蒼龍/舞風)という配置であった。6月5日の戦闘序盤、嵐は撃墜されて漂流する空母ヨークタウン雷撃隊の生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助し、艦内に収容している。他に巻雲もアメリカ軍搭乗員2名を収容している。 また、エンタープライズ飛行隊長のクラレンス・マクラスキー少佐(急降下爆撃機SBDドーントレス操縦員)によれば、攻撃隊をひきいて会敵予想地点に到達したが南雲機動部隊を発見できず、その策敵中に『1隻の日本巡洋艦』を発見。これを『機動部隊と上陸部隊との連絡艦』と推定し、巡洋艦の針路に合わせて飛ぶことで、南雲機動部隊の空母4隻を発見したと回想している。ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士を始め多くの著作において、嵐はアメリカ潜水艦ノーチラスを爆雷で攻撃したのち本隊に戻るべく増速、これをマクラスキー少佐隊が発見・追跡して南雲機動部隊本隊を発見した…としている。ただし前述のとおり第4駆逐隊司令艦嵐は空母赤城の直衛であり、嵐の戦友会によれば、空襲直前の時点で同艦の傍から離れることはなかったという。南雲機動部隊の真ん中に浮上して戦艦霧島に雷撃を敢行したノーチラスに対し、嵐が爆雷攻撃を行った事は記録に残っている。 結局、エンタープライズの艦爆隊によって赤城、加賀が、ヨークタウンの艦爆隊により蒼龍が被弾炎上した。第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)は赤城の至近にあって消火活動や脱出者の救助に従事した。嵐は赤城に横付して消火作業を行うが駆逐艦による消火には限界があり、漸次赤城乗組員の収容を行う。このとき有賀司令や赤城幹部達は赤城の青木泰二郎艦長を説得して嵐に移乗させたが、のちに青木は予備役に編入された。加賀の沈没後、同艦の乗組員を救助した第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)が合流すると、有賀司令は連合艦隊司令部に赤城処分許可を求めるが却下された。そこで有賀司令は『今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす』との命令を発した。第4駆逐隊は赤城の警戒にあたるが、水平線上に敵影を発見し、これに対し突撃する一幕もあったという。この頃山本五十六連合艦隊司令長官(大和座乗)より赤城の処分命令が下った。これを受けて嵐以下第4駆逐隊4隻は赤城を雷撃により処分した。6月6日、嵐では先に救助されていたオスムス海軍予備少尉が何者かに斬殺されて水葬された。戦後、嵐生存者は捕虜殺害の責任者として、戦争中に戦死した有賀司令、渡辺(当時駆逐艦長)、松浦勉(砲術長)の名前をあげている。 その後、第4駆逐隊は赤城と加賀の生存者を戦艦長門、陸奥等に移乗させた。またアリューシャン攻略作戦の支援およびアメリカ軍機動部隊北方出現時に対処するため、6月6日附で第三戦隊(比叡、金剛)、空母瑞鳳、第八戦隊(利根、筑摩)、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)、特設水上機母艦神川丸は北方部隊(第五艦隊)に編入され、それぞれ北方海面に進出する。6月中旬以降の第二機動部隊(指揮官角田覚治第四航空戦隊司令官)区分は、第一空襲部隊(龍驤《第四航空戦隊旗艦》、隼鷹、高雄、潮、曙、漣、浦風、東邦丸)、第二空襲部隊(瑞鶴《第五航空戦隊旗艦》、瑞鳳、摩耶、嵐、野分、萩風、舞風、富士山丸)だったが、アメリカ軍との交戦は生起しなかった。 日本帰還後の7月14日、第4駆逐隊は正式に第三艦隊・第十戦隊(司令官木村進少将)へ編入された。第十戦隊は軽巡長良、第4駆逐隊、第10駆逐隊、第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、時津風)、第17駆逐隊という戦力を揃えた。7月30日、嵐、萩風はミッドウェー攻略部隊に指定されていた陸軍一木支隊約2400名を内地に帰還させるべく、輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)を護衛してグアム島へ向かった。8月5日グァム着。8月7日-8日、グアムを出港して内地へ向かうが、既に大本営は一木支隊のガダルカナル島投入を決定していた。軍令部からの緊急命令を受けてトラック泊地へ向かい、12日着。
※この「ミッドウェー海戦以後」の解説は、「嵐 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「ミッドウェー海戦以後」を含む「嵐 (駆逐艦)」の記事については、「嵐 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
- ミッドウェー海戦以後のページへのリンク