ポスト福井
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2008年3月、日本政府は武藤を総裁候補、伊藤隆敏と白川方明を副総裁候補として国会に正式に提示し、武藤らは衆参両院の議院運営委員会にて所信表明を行った。 3月11日に表明した所信では日銀の独立性や金融政策について持論を述べている。市場関係者からは武藤の所信に対し「経済に対して強気でも弱気でもなく現実的で安定的な姿勢」と評価する声が挙がり、日本経済団体連合会会長の御手洗冨士夫も「非常にベストな候補者と評した」。 3月12日付の讀賣新聞、朝日新聞、日本経済新聞、中日新聞(含む東京新聞)、毎日新聞、産経新聞といった主要各紙は、民主党に対し自制を促す社説を一斉に掲載した。しかし、同日行われた参議院における採決では、民主、共産、社民、国民新などの反対多数により武藤と伊藤は不同意となった。 民主党の方針に対し、第一生命経済研究所のアナリストからは「武藤氏と副総裁候補の白川方明氏は、共に現在の福井俊彦日銀総裁の路線を継承すると述べたのに、両氏で同意・不同意を分ける理屈はどこにあるのか」との指摘がなされている。なお、参議院での採決時は民主党など野党系会派から造反議員が相次ぎ、川上義博、広田一、森田高は採決を棄権、大江康弘、木俣佳丈、松下新平は採決を欠席している。 3月13日、衆議院は本会議にて史上二度目となる同意人事の賛否を問う討論を開催した後、武藤の総裁就任に同意した。 両院からの同意を得られなかったため、武藤の総裁就任は見送られた。3月18日、政府は改めて田波耕治を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となった。そのため、福井は総裁任期満了日に白川を総裁代行に任命し、翌日、白川は日本銀行副総裁に就任すると同時に総裁代行に就任した。戦前には在任中の死去や大蔵大臣就任に伴う退任により5回の例があるが、戦後では初の総裁空席となった。 この間、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン経済研究主席は、日銀総裁人事などの重要案件には「特定の基準に照らして開かれた議論」が望ましいと主張し、中央銀行マン・官僚・財界人ら19人を「マクロ経済学と独立性」「政策決定機関のトップをつとめた経験」「国内外のネットワーク」の3指標で採点した結果を「次期日銀総裁 -- 候補者を比較する」と題する調査報告書として発表した(英文は3月25日、和文は翌26日に公表、英国フィナンシャル・タイムズ紙2008年4月3日号に紹介記事)。最も評価が高かったのは、小泉内閣で経済財政担当相を務めた竹中平蔵と日銀出身で金融研究所所長や経済協力開発機構(OECD)の副事務総長を務めた重原久美春で、武藤は「マクロ経済学と独立性」で17位、ほかの二つの基準で18位にとどまり、田波はいずれの基準でも最下位であった(白川は総裁候補のリストには含まれなかった)。 こうして日本国海外では知名度の高い重原の日銀総裁就任期待が高まったが、4月9日、政府は妥協策として既に総裁代行に就任していた白川を総裁候補として国会に提示し、両院での同意を得たうえで、白川を日本銀行総裁に任命した。武藤副総裁時代に日本銀行理事を務めた白川は、総裁就任会見の席上、武藤について「立派な副総裁で、尊敬している上司の一人だった」と評した。
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ポスト福井
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2008年3月19日の退任を前に、後継日銀総裁人事が進められた。日銀総裁は衆参両院の同意を必要とする国会同意人事であるが、2007年第21回参議院議員通常選挙に於いて民主党など野党が圧勝し、参議院では野党が過半数を占めるねじれ国会において参議院の同意が得られるかが注目された。 2008年3月、福田康夫内閣は財務省出身で日本銀行副総裁の武藤敏郎の総裁昇格案を国会に提示したが、3月12日に野党が過半数を占める参議院で不同意となった。これを受けて福田内閣は3月18日に同じく財務省出身で国際協力銀行総裁の田波耕治を日本銀行総裁に充てる人事案を新たに提出したが、3月19日の参議院本会議でまたも野党が田波総裁案を否決・不同意としたため、日本銀行総裁が不在という事態になった。こうした異常事態のなかで、3月19日には内閣から日本銀行副総裁に任命された白川方明が総裁職務代行者として指名され、翌3月20日、白川方明は副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めた。しかしながら、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、内外の経済問題への日銀の対処が難しくなる恐れが指摘された。 この間、米国モルガン・スタンレー証券ロバート・フェルドマン博士が総裁候補と目された19名の人物の資質について評点を行った「次期日銀総裁 -- 候補者を比較する」と題する調査報告を発表した(英文は3月25日、和文は翌26日に公表、英国フィナンシャル・タイムズ紙2008年4月3日号に紹介記事)。これによれば、日銀出身でOECD副事務総長であった重原久美春が「マクロ経済学と独立性」を重視する基準で第一位、政策決定機関トップの経験」「国内外のネットワーク」の2指標を重視する基準でも最高位にランキングされた。武藤は「マクロ経済学と独立性」で17位、ほかの二つの基準で18位にとどまり、田波はいずれの基準でも最下位であった。白川方明はフェルドマン報告のなかで日銀総裁候補と目された19人のリストに入っていなかった。こうして海外では知名度の高い重原の日銀総裁就任期待が高まったが、2008年4月9日、白川を総裁に昇格させる案が国会で同意となり、白川方明が第30代日銀総裁に就任した。日銀総裁空白期間は20日間であった。尚、日本銀行総裁空席という事態は第二次世界大戦前に5回例がある。ちなみに1923年9月に、井上準之助が辞任し、市来乙彦が就任するまでの2日間に空白期間があったのが戦前では最後であり、戦後は福井の任期切れの2008年3月20日が初めて。
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