ポスト江沢民
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1992年の第14回党大会が行われる前に、鄧小平・陳雲など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行う為に後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡は党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に党中央書記処書記にも選出された。 党総書記兼国家主席として最高権力者の地位にあった江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任して訪日の際は天皇との会見などをこなすも、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年のコソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。胡錦濤はこの演説で「アメリカをはじめとするNATO軍は我々の大使館を攻撃し、人命を奪い建物を破壊した」「アメリカの爆撃は中国の主権侵害であり、『犯罪行為』で『野蛮な行動』だ」「市民と学生のデモは人民の怒りのあらわれだ」と述べた。その上で「中国政府が全ての合法的なデモを支持していることを表明し、国民には、国家の根本的利益を考えて過度な反応は控えるよう呼びかけた。 2002年の第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国・賈慶林・曽慶紅・黄菊・李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。 胡錦濤は常に自分を隠し通してきており、「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」とされた。副主席として訪米した際は胡錦濤の名前を捩ってその控え目で寡黙かつミステリアスな雰囲気を"Who's Hu?"とアメリカのメディアは揶揄した。2002年4月25日の午後、マレーシアを訪問中の胡錦濤に対して香港の記者がインタビューを行い、その中で「海外のメディアは、あなたを『謎に包まれた人物だ』といっていますが、ご自身ではいかが思われますか」と尋ねた。これに対して胡錦濤は「その評価はあまり適切ではありませんね」と返答した。
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