副総裁時代
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1990年11月22日に、副総裁に就任。清超と共に講習会への講師としての出講を行うようになっていく。1993年、「国際平和信仰運動」を提唱し、太平洋戦争(大東亜戦争)への反省や戦争責任の追及、人権感覚からの女系・女性天皇の推進を表明するなど、これまでの方針からの転換を進めている。また近年では、地球環境問題や遺伝子操作・生命倫理問題、エネルギー問題などの現代科学に対する主張が多く、教団の教義にもその意向が強く現れてきている。一方で、立正佼成会をはじめとするリベラル派宗教団体との連携も行ったため、前述のような路線変更が重なったこともあり、左翼的であるとの批判の声が出てくるようになった。その結果、1998年には生長の家社会事業団が教団とは独自路線を歩むようになり、2003年には新教育者連盟(新教連)が教団による支配を弱める内容の「財団法人新教育者連盟寄付行為施行細則」の改正を強行、新教連の教団系の支部長(全体の八割を占めた)がそれに抗議して辞任する事態となった。これに対して、雅宣や彼を支持する教団幹部は、2005年に教団の「国際教修会」を開催し、生政連の活動停止に至る経緯を検証するなどし、雅宣の路線こそが雅春・清超の正当な後継路線であることを訴えた。 2005年2月頃、清超が体調を崩したことにより、総裁職の業務の大半を行う「総裁代行」を兼務。以後実質的な教団の指導者として運営を行っている。
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