官選愛知県知事に就任
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官界から身を引く決心をし、後任を決めて1946年6月30日の株主総会で総裁を辞職。7月初め、東京の渋谷区の焼け残った自宅に引き揚げる。山形県の天童温泉に疎開していた家族も東京に戻り、再会を果たした。7月7日夜、自宅に帰ると当時内務次官だった飯沼一省が待っていた。愛知県知事の早川三郎が公職追放を受けたため、後任として桑原の名が挙がったという話であった。翌日、飯沼に断りの返事をするも、「たくさんの先輩、同僚たちが次々と追放された。あとに残されたものの義務として立て直しをしなければならない」と説得される。7月9日の汽車で名古屋市に向かい、同日付で愛知県知事に就任した。 1947年3月5日、初の公選愛知県知事選挙に立候補するために知事を辞職。知事選は3月15日に告示されるが、その10日後、東北興業副総裁時代に関係していた会社の戦争関与が問われ、公職適否審査委員会から追放決定の通知を受ける。桑原は東北振興パルプと東北振興アルミの役員を兼ねていたが、前者が王子製紙との、後者が昭和電工との合弁会社で、それらが共に有数の財閥会社であったことから追放の対象になった。桑原は急遽、官選最後の知事で元内務官僚の青柳秀夫に出馬を要請し、青柳は4月5日に行われた選挙で初当選した。 1948年7月、東海証券の社長に就任。同時に名古屋証券業協会の会長にも就任した。同年10月、ホテル丸栄の初代社長に就任。
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