ブレトンウッズ体制の崩壊と世界の多極化とは? わかりやすく解説

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ブレトン・ウッズ体制の崩壊と世界の多極化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)

現代の世界の一体化」の記事における「ブレトン・ウッズ体制の崩壊と世界の多極化」の解説

詳細は「ベトナム戦争」、「ブレトン・ウッズ協定」、「ニクソン・ショック」、「西ドイツ#経済の奇跡」、「高度経済成長#日本高度経済成長」、「スミソニアン協定」、および「主要国首脳会議」を参照 1960年南ベトナムに、アメリカ傀儡政権打倒南北統一主張する南ベトナム解放民族戦線結成され政府軍対す武力闘争開始すると、アメリカジョン・F・ケネディ大統領傀儡政権と間接支配維持するため、1961年アメリカ軍派遣して南ベトナム解放民族戦線対す武力行使開始した1963年時点では1万6千人アメリカ軍投入したが、大部分南ベトナム国民は腐敗した傀儡政権支持せず、南ベトナム解放民族戦線支持したので、アメリカ軍南ベトナム解放民族戦線壊滅できず、ケネディ大統領1963年10月時点で、2年後1965年度末までに撤退模索したが、直後1963年11月暗殺された。1964年8月ベトナムトンキン湾事件がおこると、リンドン・ジョンソン大統領1965年2月北爆開始して戦線北ベトナムにまで拡大した1965年3月にはアメリカ地上軍派遣開始しベトナム戦争最盛期1968年には、南ベトナム領土内だけでも54万人アメリカ軍派遣するなど、第二次世界大戦終結後アメリカでは最大規模軍事力投入した日本では池田勇人首相による「所得倍増計画」が1960年12月発表され高度経済成長路線邁進した。1964年東海道新幹線開通東京オリンピック開催1970年大阪万国博覧会といった内需要因加えベトナム戦争特需もあり、池田首相唱えた所得倍増1967年達成されることとなったまた、日本戦前並の世界輸出シェア復帰したのは1960年代半ばだったが、その貿易自由化実現の途についたのも同じころだった。日本こののちオイルショック乗りきって経済大国としての地位確立し軍事的には、アメリカに対してはほぼ一貫して同盟者でありつづけたが、1970年代以降輸出拡大ともなって日米間に貿易摩擦生じた同様に西ドイツ経済復興動き展開された。コンラート・アデナウアー首相のもとで、ルートヴィヒ・エアハルト副首相経済政策によって、西ドイツは、ヨーロッパの中での経済大国としての地位確立させていったこのころ経済成長を「エアハルトの奇跡」とも呼ぶ。 戦後世界貿易リードしてきたヨーロッパ経済共同体EEC)は、域内貿易活発にして協調関係拡充成功する一方関税同盟としては域外差別体制をとった。こうしたEECの「要塞化に対してアメリカ反発があった。また、フランス1966年北大西洋条約機構NATO)の軍事機構から離脱政治機構には継続加盟)し、西ドイツ独自に東方外交展開して1973年東西ドイツ国連同時加盟実現したように、西欧諸国アメリカとは一線を画した独自の姿勢うちだすようになったアメリカ合衆国経済的繁栄享受していたが、西欧日本輸出伸びとは対照的に終戦直後輸出シェア1980年に至るまで低下させつづけた1960年代後半アメリカではベトナム戦争による財政赤字経済成長にともなうインフレーションまた、貿易赤字拡大表面化したこのような経済情勢背景に、1971年8月15日リチャード・ニクソン大統領は、突如ドルと金兌換停止発表したニクソン・ショック)。その後スミソニアン協定で、1ドル360円が308円に切り上げられたが、アメリカ貿易赤字拡大はとどまることなくドル基準とする固定相場制崩壊して先進国1973年変動相場制移行することとなったニクソン大統領による、ソ連との第一次戦略兵器制限交渉弾道弾迎撃ミサイル制限条約多国間生物兵器禁止条約への署名文化大革命中の1971年中華人民共和国との国交正常化は、世界諸国対すアメリカ国力影響力相対的な衰退による現象という一面でもあった。1973年1月アメリカ南ベトナム北ベトナム南ベトナム解放民族戦線和平協定成立し1973年3月アメリカ軍ベトナムから撤退した。 こうしてアメリカ著しく後退する一方で西欧諸国日本の立場強まり1975年からは、フランスヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の提唱により、アメリカ西欧諸国日本参加する主要先進国首脳会議サミット)が毎年開催されるようになった社会主義陣営においても、とりわけ中国においてソ連からの自立動き顕著になった。中国は、1956年からのニキータ・フルシチョフ議長による対西側緊張緩和政策には批判的であり、1960年ソ連共産党指導部中国派遣していた技術専門家ひきあげると、中ソ対立公然のものとなり、中国キューバ危機における対米譲歩についてもソ連非難した。この対立は、文化大革命がおこるといっそう激しくなり、1969年には中ソ国境紛争にまで発展したこのように1960年代には東西陣営内部米ソ対抗する国ぐにが台頭し60年代後半以降世界多極化という傾向顕著になっていった

※この「ブレトン・ウッズ体制の崩壊と世界の多極化」の解説は、「現代の世界の一体化」の解説の一部です。
「ブレトン・ウッズ体制の崩壊と世界の多極化」を含む「現代の世界の一体化」の記事については、「現代の世界の一体化」の概要を参照ください。

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