トルーマンと冷戦の始まりとは? わかりやすく解説

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トルーマンと冷戦の始まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)

アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「トルーマンと冷戦の始まり」の解説

1945年4月就任わずか2ヶ月半でルーズベルト死去すると、トルーマン大統領の座を引き継ぎ大戦終結あたった戦後トルーマン政権マーシャル・プランによって欧州復興支援したが、第二次大戦末期から高まっていたソビエト連邦とする共産主義陣営との対立深刻さ増し外国反共自由主義陣営支援するトルーマン・ドクトリンの提唱や、北大西洋条約機構創設至った国内では、ルーズベルト戦争によって押さえつけられていた党内対立顕在化するようになった主要な勢力は、大都市集票組織マシーン)、南部地域政党極左勢力、そして自由主義連合自由主義労働者連合[訳語疑問点]とも)であった自由主義連合は、アメリカ労働総同盟AFL)、産業別組合会議英語版)(CIO)、全米黒人地位向上協会NAACP)、ユダヤ系アメリカ人評議会英語版)(AJC)、民主主義的行動するアメリカ人英語版)(ADA)などから構成されていた。また、1940年代映画スターから政治家になったロナルド・レーガン等はルーズベルトトルーマン強く支持し民主党重要な支持母体としてハリウッド新たに加わったヘンリー・A・ウォレス副大統領等、左派勢力は、トルーマン外交政策戦争挑発するのであるとして批判したが、1946年から48年にかけて、民主党内では若い反共主義者ヒューバート・ハンフリー、ウォルター・ロイザー(英語版)やアーサー・シュレジンジャー・ジュニア等が台頭しウォレス支持者その他の左寄り民主党員は党や産業別組合会議英語版)(CIO)を追われた。1948年までに、極左勢力共産主義分子労働組合からほぼ完全に排除された。 南部民主党議員はほとんどが保守的で、たいてい保守的な共和党員と協同した。その結果1937年から1970年代にかけて、リベラルな国内政策法案は、事実上保守連合阻止された(わずかにジョンソン政権下の1964年から65年の短い期間を除く)。共和党トルーマン国内政策非難した1946年議会選挙では、共和党が「もうたくさん?」という標語掲げて1928年以来初め多数派取り戻した1948年大統領選挙では、民主党幹部多くトルーマン不支持に回るつもりであったが、出馬要請したドワイト・D・アイゼンハワー将軍断られると、代わり候補を見つけることができなかった。トルーマン反撃開始したが、この年民主党全国大会において、トルーマン公民権運動と反人種隔離政策英語版)を強く支持する公約掲げると、南部民主党議員多くは党を離れサウスカロライナ州知事ストロム・サーモンド(後に上院議員となり、共和党入党)に率いられ州権民主党ディキシークラット)を結党した。ただし、他の保守的な民主党員はほとんど離党しなかった。 ヘンリー・ウォレス無所属候補として大統領選出馬しソ連との融和呼びかけたが、労働組合主流から排除され共産主義者陣営乗っ取られたこともあり、かえって反共感情からトルーマンに票が集まる結果となり、惨敗した最終的にトルーマンサーモンド退け、また共和党内部対立にも助けられ当選果たした。この当選大きな驚きをもって迎えられた。国内支持基盤弱く、皆保険制度などのトルーマンフェア・ディール政策法案は、すべて保守連合によって成立阻止された。鉄鋼業界の国有化最高裁によって覆された。 一方外交面では、トルーマンは、共和党国際主義者と連携することで、右派孤立主義者と、左派親ソ勢力双方に勝ち、冷戦体制構築成功した。この体制1991年ソビエト連邦の崩壊まで続くことになる。しかし、1948年ベルリン封鎖等、共産陣営との関係は悪化一途をたどり、アジアでも緊張高まっていった。1949年には共産党による中華人民共和国成立し、翌50年トルーマン議会の公式な承認を得ることなく朝鮮戦争参戦した戦争膠着状態に陥り、1951年トルーマンダグラス・マッカーサー元帥解任したが、アジア政策めぐって共和党から激し攻撃浴びた周囲スキャンダル続いたこともあり、トルーマンイメージはさらに低下し1952年大統領選挙では、トルーマン早々に撤退表明し明確に後継者指名することもできなかった。民主党党大会アドレー・スティーブンソン大統領候補指名したが、ドワイト・アイゼンハワー擁立して、「朝鮮戦争)、共産主義政治腐敗」(“Korea, Communism and Corruption”)に反対掲げたキャンペーン展開する共和党圧勝した1956年大統領選挙でも再びスティーブンソン候補指名されたが、やはりアイゼンハワー惨敗したアイゼンハワー政権下の議会では、サム・レイバーン(英語版下院議長リンドン・B・ジョンソン上院院内総務という強力な二人組民主党内をまとめあげ、しばしばアイゼンハワーとも妥協した1958年アメリカ合衆国議会選挙英語版)では、主に労働者組織的な活動により民主党劇的な勝利をあげ、議会恒久的に掌握したかにすら見えた実際に民主党1930年から1992年まで、1946年1952年を除く全ての選挙で、下院過半数占めていた。保守連合依然としてリベラルな法案通過阻止していたが、これに対抗する組織として、議会組織自由化求め民主党研究グループ英語版)が台頭し、後にケネディジョンソン政権において多く法案通過尽力することになる。

※この「トルーマンと冷戦の始まり」の解説は、「アメリカ合衆国民主党の歴史」の解説の一部です。
「トルーマンと冷戦の始まり」を含む「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国民主党の歴史」の概要を参照ください。

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