トルーマンと冷戦の始まり
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「トルーマンと冷戦の始まり」の解説
1945年4月、就任わずか2ヶ月半でルーズベルトが死去すると、トルーマンが大統領の座を引き継ぎ、大戦の終結にあたった。戦後、トルーマン政権はマーシャル・プランによって欧州復興を支援したが、第二次大戦末期から高まっていたソビエト連邦を核とする共産主義陣営との対立は深刻さを増し、外国の反共・自由主義陣営を支援するトルーマン・ドクトリンの提唱や、北大西洋条約機構の創設に至った。 国内では、ルーズベルトや戦争によって押さえつけられていた党内の対立が顕在化するようになった。主要な勢力は、大都市の集票組織(マシーン)、南部の地域政党、極左勢力、そして自由主義連合(自由主義労働者連合[訳語疑問点]とも)であった。自由主義連合は、アメリカ労働総同盟(AFL)、産業別組合会議(英語版)(CIO)、全米黒人地位向上協会(NAACP)、ユダヤ系アメリカ人評議会(英語版)(AJC)、民主主義的に行動するアメリカ人(英語版)(ADA)などから構成されていた。また、1940年代、映画スターから政治家になったロナルド・レーガン等はルーズベルトやトルーマンを強く支持し、民主党の重要な支持母体としてハリウッドが新たに加わった。 ヘンリー・A・ウォレス元副大統領等、左派勢力は、トルーマンの外交政策を戦争を挑発するものであるとして批判したが、1946年から48年にかけて、民主党内では若い反共主義者のヒューバート・ハンフリー、ウォルター・ロイザー(英語版)やアーサー・シュレジンジャー・ジュニア等が台頭し、ウォレス支持者やその他の左寄りの民主党員は党や産業別組合会議(英語版)(CIO)を追われた。1948年までに、極左勢力と共産主義分子は労働組合からほぼ完全に排除された。 南部の民主党議員はほとんどが保守的で、たいてい保守的な共和党員と協同した。その結果、1937年から1970年代にかけて、リベラルな国内政策法案は、事実上保守連合に阻止された(わずかにジョンソン政権下の1964年から65年の短い期間を除く)。共和党もトルーマンの国内政策を非難した。1946年の議会選挙では、共和党が「もうたくさん?」という標語を掲げて、1928年以来初めて多数派を取り戻した。 1948年の大統領選挙では、民主党幹部の多くはトルーマン不支持に回るつもりであったが、出馬を要請したドワイト・D・アイゼンハワー将軍に断られると、代わりの候補を見つけることができなかった。トルーマンも反撃を開始したが、この年の民主党全国大会において、トルーマンが公民権運動と反人種隔離政策(英語版)を強く支持する公約を掲げると、南部の民主党議員の多くは党を離れ、サウスカロライナ州知事ストロム・サーモンド(後に上院議員となり、共和党に入党)に率いられて州権民主党(ディキシークラット)を結党した。ただし、他の保守的な民主党員はほとんど離党しなかった。 ヘンリー・ウォレスも無所属候補として大統領選に出馬し、ソ連との融和を呼びかけたが、労働組合の主流から排除された共産主義者に陣営を乗っ取られたこともあり、かえって反共感情からトルーマンに票が集まる結果となり、惨敗した。 最終的にトルーマンはサーモンドを退け、また共和党内部の対立にも助けられて当選を果たした。この当選は大きな驚きをもって迎えられた。国内の支持基盤は弱く、皆保険制度などのトルーマンのフェア・ディール政策の法案は、すべて保守連合によって成立を阻止された。鉄鋼業界の国有化も最高裁によって覆された。 一方、外交面では、トルーマンは、共和党の国際主義者と連携することで、右派の孤立主義者と、左派の親ソ勢力の双方に勝ち、冷戦体制の構築に成功した。この体制は1991年のソビエト連邦の崩壊まで続くことになる。しかし、1948年のベルリン封鎖等、共産陣営との関係は悪化の一途をたどり、アジアでも緊張が高まっていった。1949年には共産党による中華人民共和国が成立し、翌50年、トルーマンは議会の公式な承認を得ることなく朝鮮戦争に参戦した。戦争は膠着状態に陥り、1951年、トルーマンはダグラス・マッカーサー元帥を解任したが、アジア政策をめぐって共和党から激しい攻撃を浴びた。 周囲のスキャンダルが続いたこともあり、トルーマンのイメージはさらに低下し、1952年の大統領選挙では、トルーマンは早々に撤退を表明し、明確に後継者を指名することもできなかった。民主党は党大会でアドレー・スティーブンソンを大統領候補に指名したが、ドワイト・アイゼンハワーを擁立して、「朝鮮(戦争)、共産主義、政治腐敗」(“Korea, Communism and Corruption”)に反対を掲げたキャンペーンを展開する共和党が圧勝した。1956年の大統領選挙でも再びスティーブンソンが候補に指名されたが、やはりアイゼンハワーに惨敗した。 アイゼンハワー政権下の議会では、サム・レイバーン(英語版)下院議長とリンドン・B・ジョンソン上院院内総務という強力な二人組が民主党内をまとめあげ、しばしばアイゼンハワーとも妥協した。1958年アメリカ合衆国議会選挙(英語版)では、主に労働者の組織的な活動により民主党が劇的な勝利をあげ、議会を恒久的に掌握したかにすら見えた。実際に民主党は1930年から1992年まで、1946年と1952年を除く全ての選挙で、下院の過半数を占めていた。保守連合は依然としてリベラルな法案通過を阻止していたが、これに対抗する組織として、議会組織の自由化を求める民主党研究グループ(英語版)が台頭し、後にケネディ=ジョンソン政権において多くの法案の通過に尽力することになる。
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