テニス選手としての経歴とは? わかりやすく解説

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テニス選手としての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 22:51 UTC 版)

清水善造」の記事における「テニス選手としての経歴」の解説

清水第1次世界大戦後時代活躍し熊谷一弥と共に日本テニス界の黎明期築いた選手である。清水旧制高崎中学校時代軟式テニス出会い東京高等商業学校時代庭球部に入部東京高商最上級生時代には主将務めるなど選手として活動した後、三井物産カルカッタ駐在員時代硬式テニス初め接して本格的に硬式テニス選手としてプレーするうになる。なお、日本初めテニス紹介されたのは1878年明治11年であったが、ボール製造必要なゴム輸入困難であったことから、日本独自軟球用いたソフトテニス軟式テニス)が編み出される。そのため、通常は「テニス」と呼ばれるスポーツに“硬式テニスという呼称があるのも日本独特の呼び方である。清水日本における硬式テニス開拓者として活動した清水カルカッタ時代ベンガル選手権大会1915年から1919年まで5年連続優勝商用赴いたブエノスアイレスアルゼンチン)で出場した南米選手権でも優勝するなど実績積み重ねる1920年大正9年)には長期休暇利用してイギリス渡航イギリス国内試合出場しながら6月ウィンブルドン選手権大会に臨む。そのウインブルドン選手権で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦決定戦)の決勝まで勝ち進んだ当時はテニス・トーナメントの方式も現在とは大きく異なり前年優勝者無条件決勝行き、そこで1回戦から勝ち上がる選手(チャレンジ・ラウンドの優勝者)と決勝戦を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final方式採用していた。そのチャレンジ・ラウンド決勝戦で、清水当時世界ナンバーワン選手であったビル・チルデンアメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13激戦敗れたが、この大活躍で硬式テニス日本紹介した。 この試合では、対戦相手チルデンが足を滑らせ転倒その時清水ゆっくりとしたボール返したとされるやわらかなボール」の逸話生まれたチルデン態勢立て直し返球エースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンラケット指した所、観客スタンディング・オベーション清水向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人会場を後にしたものの、その後しばらく拍手続いたという。上前淳一郎清水敗戦意図的な誤審よるものであるとする説がある。清水は2セット先取し、3セット目も 5-4 としマッチポイント迎えていた。ここで清水放ったサーブチルデンミス清水勝利かと思われたが、線審レット宣告。これで清水ペース乱されチルデンに3セット連取許した清水レット宣告したアメリカ人線審は、死ぬ間際に「あれは意図的な誤審だった」と、母国英雄であるチルデン勝たせるために意図的に誤審犯したことを日本人牧師告白した。 という雑誌掲載され記事興味引かれ取材始め清水およびこの試合について書籍やわらかなボール』を刊行している。その中で、「意図的な誤審」説はテニス・ジャーナリストのバド・コリンズによる創作であったとしている。 チャレンジ・ラウンド決勝清水破ったチルデンは、オールカマーズ・ファイナルにて1919年度優勝者ジェラルド・パターソンオーストラリア)に勝ち、大会初優勝飾った。 翌1921年ウィンブルドンではチャレンジ・ラウンド準決勝マニュエル・アロンソスペイン)に敗れ2年連続のチャレンジ・ラウンド決勝進出逃した1921年に、日本チーム男子国別対抗戦デビスカップ」にも初出場を果たす。「アメリカン・ゾーン」よりオールカマーズ・ファイナルに進み日本アメリカに0勝5敗で敗れたが、清水はここでもチルデン健闘している。(2セット・アップ先に2セット先取した状態から、チルデンに3セット連取されて逆転負けした。)これらの成績により、清水当時世界ランキングで、1920年は9位、1921年は4位にランクされた。 こうして清水活躍は、同郷群馬県)の後輩に当たる佐藤次郎始めとする後続日本男子テニス選手たち大きな刺激与えた海外でも清水は、その礼儀正しさから「ミスター・シミー」、にこやかな笑顔から「スマイリー・シミー」という愛称呼ばれたという。 1923年発生した関東大震災復興支援のために清水アメリカ各地開催され義援金募集チャリティー試合出場したという。 1927年選手生活引退し三井物産での社業生活に戻るが、その一方で後進育成尽力し1954年デビスカップ日本代表監督就任する宮城淳加茂公成当時日本一線選手メンバーとして率いた海外遠征ではメキシコに赴き、そこで日本代表チームは「2勝3敗」でメキシコ・チームに敗れたが、その帰途清水アメリカ立ち寄り前年1953年6月5日)に死去した旧友チルデン墓参行った。 孫の清水善三によれば晩年清水70歳過ぎても、毎朝自宅壁打ち用の板を相手2000回ほどの壁打ち続け、ほぼミスをしなかったという。 故郷である群馬県テニス協会は、清水善造の名を冠した大会清水善造群馬県テニス選手大会』を毎年夏の終わりから秋にかけて開催している。

※この「テニス選手としての経歴」の解説は、「清水善造」の解説の一部です。
「テニス選手としての経歴」を含む「清水善造」の記事については、「清水善造」の概要を参照ください。

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