テニス選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 20:37 UTC 版)
1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加:27。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。岡本は当時三井物産の社員でインドに駐在していた。なお、三井物産からは本田朝次もパリオリンピックのテニス競技に参加している。シングルスでは1回戦を突破したが、2回戦でヤン・コジェルフ(英語版)に敗れた。原田武一と組んだダブルスでは、Bjørn Thalbitzer・Einar Bache組に1ゲームを失ったものの勝利。2回戦でスペインのアロンソ兄弟(ホセ・マリア・アロンソとマニュエル・アロンソ)に4セットを奪われた。 1924年ウィンブルドン選手権にはシングルスとダブルスに出場。シングルスでは1回戦でルネ・ラコステに4セット負け。ダブルスでは邱飛海(Khoo, Hooi-Hye)と組み、3回戦に進出したが、最終的にはフランシス・ハンターとビンセント・リチャーズのペアに敗れた
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