鳥羽貞三
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鳥羽 貞三(とば ていぞう、1901年9月15日 - 2002年1月18日)は日本のテニス選手[1]。
京都市出身[2]。神戸高等商業学校で学び、1923年に大阪で開催された第6回極東選手権競技大会のテニスシングルスで優勝した。1926年から1928年まで日本代表としてデビスカップに出場し、シングルスで4勝、ダブルスで3勝している[3]。全米選手権(現在の全米オープン)にも出場し、1926年にはシングルスで3回戦に進出している(en:1926 U.S. National Championships – Men's singles)[4]。
鉄鋼業界で働き、1970年に住友商事と合併した相互貿易の社長を務めていた[2]。合併後は、住友商事取締役相談役を務めた[2]。また、日本テニス協会の顧問も務めていた[2]。
2002年に渋谷区の病院で老衰のため100歳で死去した[2]。
著書
- 苦闘のテニス三十年貿易五十年回想(1989年)
出典
- ^ “He Licked Us at Tennis - Can He Do It in Business”. The Vancouver Sun. (6 August 1952)
- ^ a b c d e “鳥羽貞三氏死去/日本テニス協会顧問”. Shikoku News. (18 January 2002)
- ^ “TEIZO TOBA”. www.daviscup.com. 2025年3月1日閲覧。
- ^ “U.S. Netmen To Tackle French Invasion Today”. Fresno Morning Republican. (16 September 1926)
外部リンク
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