ゾルゲ事件とは? わかりやすく解説

ゾルゲ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

近衛文麿」の記事における「ゾルゲ事件」の解説

いわゆるゾルゲ事件に連座していた内閣嘱託尾崎秀実西園寺公一10月14日検挙され近衛内閣総辞職した10月18日には、リヒャルト・ゾルゲマックス・クラウゼンブランコ・ド・ヴーケリッチなど外国人メンバー一斉に逮捕された。 なお当然ながら、近衛内閣嘱託への2名の任命責任と、近衛のゾルゲ事件への情報流出関与疑われたが、この日の総辞職その後英米開戦事実上不問となった

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ゾルゲ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「ゾルゲ事件」の解説

このような中で、1941年9月27日アメリカ共産党員の北林トモ10月10日宮城与徳10月14日近衛内閣嘱託である尾崎秀実西園寺公一逮捕皮切りにソ連のスパイ関係者順次拘束逮捕された。その後ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の記者で、東京府在住していたドイツ人リヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内ソ連並びにコミンテルン諜報活動および謀略活動行っていたことが判明した捜査対象外国人、しかも友好国ドイツ人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課捜査投入された。その後宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎西園寺ゾルゲらの外国人容疑者同時に検挙しなければ容疑者国外逃亡大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡証拠隠滅予想されるため、警視庁一斉検挙承認検事求めた。しかし、大審院検事局日独外交関係考慮し、まず総理退陣間近な近衛文麿と近い尾崎西園寺検挙により確信得てから外国人容疑者検挙すべきである、と警視庁主張認めなかった。 その後尾崎近衛内閣総辞職する4日前の10月14日逮捕され東條英機陸相首相に就任した同18日外事課は、検挙班を分けてゾルゲマックス・クラウゼンと妻のアンナブランコ・ド・ヴーケリッチ外国人容疑者検挙し、ここにソ連によるスパイ事件いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。 ゾルゲ日本軍矛先同盟国ドイツ求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤオランダ領東インドアメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前10月4日ソ連本国打電したその結果ソ連日本軍攻撃対処するためにソ満国境配備した冬季装備充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面移動させることができたといわれるゾルゲ逮捕受けてドイツ大使館警察武官兼国家保安本部将校で、スパイ取り締まる責任者ヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリン国家保安本部に対して日本当局によるゾルゲ対す嫌疑は、全く信用する値しない」と報告している。さらにゾルゲ個人的な友人であり、ゾルゲドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部在日ドイツ人特派員一同ゾルゲ逮捕容疑不当なのである抗議する声明文出した。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲ逮捕され直後から、「友邦国民対す不当逮捕」だとして様々な外交ルート使ってゾルゲ釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。 しかし友邦ドイツ大使館付の私設情報官という、万が一時には外交的に大問題となる場合対し万全尽くした警察調べにより、逮捕間もなくゾルゲ全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた間もなく別面会を許されオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員宮城北林らの共産党員、そして尾崎西園寺などの近衛内閣嘱託死刑判決懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら尾崎西園寺と非常に近い近衛関与疑われたが、その後辞職英米開戦不問となった。 なおオット大使1941年12月日英米が開戦しドイツアメリカ宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けたオット自身からリッベントロップゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、ドイツ外務省には満州国新京駐在総領事1942年3月送った通信でゾルゲ事件の詳細もたらされたと推測されている。これを受けてリッベントロップオットに、ゾルゲ漏洩した情報の内容経緯ゾルゲ身分カモフラージュしナチス党員やドイツ新聞特派員になりおおせた事情説明求めた。これに対してオットゾルゲナチス入党経緯大使館新聞社推薦をしたかどうかはわからずゾルゲには機密情報接触させなかったと弁解した。さらに、事件日独関係支障もたらしていないと述べた上で、自らの解任もしくは休職要請したオット1942年11月駐日大使解任され後任は駐南京国民政府大使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった解任通知には「外務省召還」とする一方でドイツへ安全な帰還確保できないとして、私人として一切政治的活動控えながら当面日本にとどまるよう指示されていた。その後華北政務委員会北京へと家族とともに向かった対すソ連は、ゾルゲ自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲ自国スパイであったことを戦後まで拒否し通していた。ゾルゲ死刑は、第二次世界大戦末期1944年11月7日関与拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日巣鴨拘置所にて死刑執行された。死刑執行直前ゾルゲ最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍国際共産主義歳」であった。 なお、第二次世界大戦後日本連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部責任者として駐在したアメリカ陸軍チャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件とソ連コミンテルン、またその関係者と、アメリカ共産党とそのシンパとの親密な関係に注目し大掛かりかつ綿密な調査行った

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