ゾルゲ事件
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いわゆるゾルゲ事件に連座していた内閣嘱託の尾崎秀実と西園寺公一が10月14日に検挙され、近衛が内閣総辞職した10月18日には、リヒャルト・ゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチなど外国人メンバーが一斉に逮捕された。 なお当然ながら、近衛の内閣嘱託への2名の任命責任と、近衛のゾルゲ事件への情報流出の関与も疑われたが、この日の総辞職とその後の英米開戦で事実上の不問となった。
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ゾルゲ事件
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このような中で、1941年9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実や西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕された。その後ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の記者で、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内でソ連並びにコミンテルンの諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。 捜査対象に外国人、しかも友好国のドイツ人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎や西園寺とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎、西園寺の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。 その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14日に逮捕され、東條英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。 ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることができたといわれる。 ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。 しかし友邦ドイツの大使館付の私設情報官という、万が一の時には外交的にも大問題となる場合に対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員や宮城や北林らの共産党員、そして尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら尾崎や西園寺と非常に近い近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。 なおオット大使は1941年12月に日英米が開戦し、ドイツもアメリカに宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けた。オット自身からリッベントロップにゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、ドイツ外務省には満州国の新京駐在総領事が1942年3月に送った通信でゾルゲ事件の詳細がもたらされたと推測されている。これを受けてリッベントロップはオットに、ゾルゲに漏洩した情報の内容や経緯、ゾルゲが身分をカモフラージュしてナチス党員やドイツの新聞特派員になりおおせた事情の説明を求めた。これに対して、オットはゾルゲのナチス入党の経緯や大使館が新聞社に推薦をしたかどうかはわからず、ゾルゲには機密情報と接触させなかったと弁解した。さらに、事件が日独関係に支障をもたらしていないと述べた上で、自らの解任もしくは休職を要請した。 オットは1942年11月に駐日大使を解任され、後任は駐南京国民政府大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった。解任通知には「外務省に召還」とする一方で、ドイツへの安全な帰還が確保できないとして、私人として一切の政治的活動を控えながら当面日本にとどまるよう指示されていた。その後華北政務委員会の北京へと家族とともに向かった。 対するソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。 なお、第二次世界大戦後日本に連合国軍最高司令官総司令部の参謀第2部の責任者として駐在したアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件とソ連やコミンテルン、またその関係者と、アメリカ共産党とそのシンパとの親密な関係に注目し、大掛かりかつ綿密な調査を行った。
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