ゾルゲ事件と刑死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:39 UTC 版)
「ゾルゲ事件」および「ゾルゲ諜報団#一斉検挙」も参照 1941年(昭和16年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。訊問には積極的に答えたので、28回分の検事・司法警察官訊問調書、また、28回分の予審判事訊問調書などの、膨大な量の資料を遺した。この時拘置所で一緒だった伊藤律は、回想録で恰幅の良かった尾崎がやせ衰えていた事、別件の調査で尾崎に面会した予審判事の小林健治は総白髪になっていたことに驚いたと記している。また、近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。 逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。 1944年(昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。 戦前、理想郷を夢見て渡航した多くの日本人コミュニストたちが、大粛清の渦中に巻き込まれ、利用価値がないとしてソ連当局により裏切られ残酷に殺害されていったのとは対照に、ゾルゲ諜報団の面々は稀有な存在であると言える[要出典]。彼らはソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された[要出典]。それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年(平成22年)1月発表している[要出典]。尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、2010年に駐日ロシア大使から勲章と表彰状を受け取った。 尾崎の墓は多磨霊園にある。また、獄中の尾崎が家族宛に送っていた書簡が戦後にまとめられ『愛情はふる星のごとく』として出版された。
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