セーシェル事件と有罪判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:30 UTC 版)
「マイク・ホアー」の記事における「セーシェル事件と有罪判決」の解説
詳細は「1981年セーシェルクーデター未遂(英語版)」を参照 1978年、南アフリカ共和国にてジェイムス・マンチャム元大統領を始めとするセーシェル人亡命者たちはフランス=アルベール・ルネ大統領に対するクーデターを企画し、南アフリカ政府当局との秘密会談が行われた。 また、ディエゴガルシア島への米軍基地建設に関する問題でルネが激しい抵抗を示していた為、アメリカ政府内部でもこのクーデターへの支援を行う事が決定された。 南アフリカで一介の民間人として暮らしていたホアーはマンチャムからの連絡を受けるなり、南アフリカ軍特殊部隊旅団の隊員や元ローデシア軍人、及びコンゴで戦った傭兵達など53名の兵士を召集した。1981年11月、ホアーは呼び集めた中産階級の白人で傭兵団を編成する。彼らは1930年代の英国の上流階級社交クラブの名を取って "Ye Ancient Order of Froth-Blowers"(「フロスブロワー友好団体」、AOFB)と呼ばれた。 後にホアーが著した『The Seychelles Affair』によれば、傭兵団はラグビー団体を装い、手荷物の底にAK-47突撃銃を隠していたのだという。 我々はヨハネスブルクのビール愛好会だった。週に一度、ブルームフォンテーンにある皆の行きつけのパブで一緒に飲んだものだ。それからラグビーもやった。年に一度、愛好会の為の祝日を設けもした。そして、我々は特別チャーター便の料金を支払ったのだ。昨年、我々はモーリシャスに向かった。本物のAOFBでは、恵まれない子供の為にオモチャを集めて孤児院に配るなんて素晴らしい伝統がある……私は確かに、出来る限り大量のオモチャを荷物に押し込んだ。ラグビーのフットボールは理想的だった。これを押し込み、上げ底の隙間にはちょっとした特別な荷物を詰め込んだ。 しかし、セーシェル空港にてある税関職員がホアーの部下(当時17歳の少年だったと言われる)の手荷物を検査しようと試みたことにより、唐突に銃撃戦が始まった。周到に偽装されていたにもかかわらず、何らかの理由からAK-47を発見した税関職員は警報を鳴らして逃げ去ろうとしたのである。ホアーの部下は手荷物からAK-47を引っ張り出し弾を込めると、税関職員が建物の反対側に到達する前に射殺した。ホアーはクーデター計画の続行を決断し、傭兵団は兵舎の占領を狙い展開した。 銃撃戦は空港のど真ん中で起こったが、この最中にエア・インディアのジェット旅客機224便が滑走路に緊急着陸してフラップに損傷を受けている。ホアーはこれらの航空機や一般の乗客を傷つけることを良しとせず、銃撃を停止し治安当局との交渉に移った。数時間後、ホアーは作戦の失敗を認め、傭兵団はエア・インディア機をハイジャックして脱出する事になる。傭兵団が補充用の航空燃料を発見した後、エア・インディア機の機長は彼らの搭乗を許可した。 ホアーが機長に「何故銃火の中に着陸したのか」と訪ねると、機長は「銃撃戦に気づいた頃には既に着陸態勢に入っており、また巡航可能な高度に復帰して予定通りに飛行するには燃料が足りなかった」と答えた。またホアーは南アフリカに戻る前に銃火器を海へ投棄したいので扉を開けてくれと頼んだが、機長は「昔とは違うんだ」と笑い、高高度のジェット機の扉を開けることは不可能だと説明した。南アフリカに到着後、ホアーは部下たちとともに警察当局に逮捕された。 傭兵のうち4名はセーシェル空港に取り残され、反逆罪の咎で有罪判決を受けている。 1982年1月、国連安保理決議496に基づき、国際委員会でセーシェルにおけるクーデター未遂に関する調査と会議が行われた。ここで作成されて報告書では、武器弾薬の提供などを含め、南アフリカの軍当局が関与していたと結論付けられている。南アフリカとの外交問題を避けるべく、当初ハイジャック犯らは裁かれうる罪のうちもっとも軽微な誘拐罪で起訴されたが、国際社会の反発を受けてハイジャック罪に格上げされている。マイク・ホアーは航空機ハイジャックの罪で有罪判決を受け、懲役10年の刑を言い渡された。最終的に43人の容疑者のうち、42人が有罪判決を受けている。 ここで無罪となった1人は、アメリカ出身の元ベトナム復員兵であったという。彼は銃撃によって負傷しており、ハイジャックには関与していなかったとされる。傭兵らの多くは、3ヶ月後に釈放されている。 刑務所に居る間に、ホアー大佐はワイルド・ギースの名誉会員にその名を連ねたが、その後は傭兵としての依頼に恵まれる事は表向きには無かった。また公認会計士としてのホアーは、英国勅許会計士としてイングランド及びウェールズ勅許会計士協会(ICAEW)に所属していた。ホアーは会費を払い続けていたので逮捕後も会員であり続けたが、他の会員などからの抗議もあり1983年には投獄を理由にホアーを除名している。 ホアーは、クリスマス大統領恩赦で釈放されるまで、33か月もの間刑務所で過ごした。刑務所での間ホアーはシェイクスピアを暗記することによって自身を慰めていたという。
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