スペイン支配の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「スペイン支配の終焉」の解説
1808年、ナポレオンはスペイン国王とその息子に王位を放棄するよう強制した。ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王に指名され、スペイン市民からの抗議が激しくなった。その後6年間暴動が続きジョゼフ・ボナパルトが1814年に退位するまで続いた。この期間、新世界への監視はほとんど無かった。ジョゼフ・ボナパルトが王位にあった間、カディスで影の政権が1812年スペイン憲法に従って統治した。この立憲政府にはテキサスやニューメキシコを含み植民地からの代表も参加した。フェルナンド7世が復位したときに新憲法すなわち代議政治を認めることを拒んだ。フェルナンドは1820年に軍事クーデターを避ける唯一の方法として、その考えの変更を強いられた。 この騒擾の時代に、誰が実際に植民地を統治していたかは明らかでない。ジョゼフ・ボナパルトか、フェルナンド7世に代わる影の政府か、植民地の役人か、あるいは各植民地の革命勢力かである。メキシコ独立戦争はミゲル・イダルゴの扇動で1810年に始まった。革命がテキサスに及ぶことを恐れた知事のマヌエル・マリア・デ・サルセドは、全ての外国人に対してテキサス国境を閉鎖するよう命じた。しかし間もなく叔父である軍政府長官に取り消された。革命勢力は間もなくサルセド政権を転覆させてサルセドを収監し、テキサスに新しい政府が建てられた。サルセドは看守の一人を説得して王党派の元に逃がして貰い、この二人で反クーデターの動きを纏めた。イダルゴは捕獲され1811年に処刑された。 アメリカ合衆国はスペイン内乱の間、公式には中立だったが、反乱者がアメリカの港で交易を行うことを許し、反乱で使われた武器弾薬の大半はアメリカ合衆国から入ったものだった。アメリカ人はこの紛争に人員も供給し、ナカタシュがテキサスに入る幾つかの遠征隊の上陸地点になった。1812年、メキシコの反乱者ベルナルド・グティエレス・デ・ララがアメリカ人の小さな部隊を率いてテキサスに入った。テキサス東部のコマンチェ族が直ぐに反乱側に加わった。この集団は自らを北部共和国軍と呼び、1813年にサンアントニオを陥れ、知事のマヌエル・マリア・デ・サルセドを暗殺し、テキサスを独立国として宣言した。知事の死によってイギリス系アメリカ人の多くを脱走させることになったが、1813年4月17日、この集団はテキサスで初めての憲法を作成し、政府の中央集権化された形態を作った。その年遅くにスペイン軍が植民地を再確保し、共和制の傾向があると告発したテキサス人全てを処刑した。それから2週間以内に400人の反乱者が処刑され、その妻や娘達は2ヶ月間投獄された。王党派の兵士達はサンアントニオから逃げ出した女性や子供達の多くを追跡し、200人ないし300人を殺害した。捕虜になったアメリカ人はスペインに対する忠誠を誓う機会を与えられ、それを拒んだ者はアメリカ合衆国に送り返された。コマンチェ族が依然として脅威になることを恐れたスペインのアレドンド将軍は牧場主の全てをサンアントニオに一時的に移動させ町の防衛を手伝わせた。数ヶ月後、これら牧場主が戻っていったとき、コマンチェ族が家畜の全てを殺戮し、その死骸をそのままにして行ったことを見付けた。スペイン軍はテキサスの残り部分も略奪し、1820年までにテキサスに残っていたヒスパニック系住民は2,000人足らずになった。歴史家のゲイ・クレイトン・アンダーソンに拠れば、「スペイン領テキサス、あるいはその残っていたものは、荒れ果て、自分で食っていけないほどに無防備な土地だった」としていた。 別の革命家ホセ・マヌエル・エレラが1816年9月にガルベストン島で政府を作り、メキシコ共和国の一部だと宣言した。アメリカ合衆国を追放されたフランス人の一団がル・シャン・ダシルと呼ぶ自分達の植民地をトリニティ川下沿いに造ろうとした。この追放者達はこの植民地をヌエバ・エスパーニャ開放と続いてナポレオンをセントヘレナ島から脱出させる基地として使おうと考えた。しかし彼等は直ぐにその植民地を放棄し、ガルベストンに戻った。 1819年2月22日、スペインとアメリカ合衆国は大陸横断条約の合意に達し、フロリダをアメリカ合衆国に譲渡する替わりに、アメリカ合衆国はテキサスに対する領有権主張を取り下げることになった。テキサスの公式の境界はサビーン川に設定され(現在のテキサス州とルイジアナ州の州境)、そこからレッド川とアーカンザス川を辿り、北緯42度線(現在のカリフォルニア州の北側州境)とされた。その後2年間、1821年2月初旬まで、スペインは条約の批准を遅らせ、アメリカ合衆国がスペイン植民地の反乱勢力を独立国として正式に認めることを妨げる梃子にした。この期間に多くのアメリカ人が条約に反対しテキサスに対する領有権主張の放棄を非難した。「シティ・オブ・ワシントン・ガゼット」の論説では条約を非難し、テキサスの地の「1リーグ」は「ロッキー山脈より西の全領土よりも」合衆国にとって価値があると主張した。 1819年、ジェイムズ・ロングがテキサスに侵入する遠征隊を率いた。彼はテキサスが独立した共和国であると宣言したが、その年の終わりまでにイグナシオ・ペレス大佐とそのスペイン軍に潰された。翌年ロングは「ヨーロッパの歴史を辱めてきた最も残忍な暴政であるスペイン権限の軛からテキサスを開放するため」、ガルベストン湾近くに新しい基地を建設した。しかし、その反乱の根拠は間もなく無くなった。1821年2月24日、アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコの独立のための運動を始めた。テキサスは銃を一発も発射することなく、新しい独立国の一部になった。
※この「スペイン支配の終焉」の解説は、「スペイン領テキサス」の解説の一部です。
「スペイン支配の終焉」を含む「スペイン領テキサス」の記事については、「スペイン領テキサス」の概要を参照ください。
- スペイン支配の終焉のページへのリンク