サンローラン政権
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「クラレンス・ハウ」の記事における「サンローラン政権」の解説
1948年1月20日、マッケンジー・キングが辞意を表明した。同時に内閣改造も表明した。サンローランもハウもマッケンジー・キングに、再建供給相の仕事を楽しんではいないハウの異動を推薦した。マッケンジー・キングが最終的に折れて、国際貿易通商相のジェイムズ・アンガス・マッキノンの代わりにハウを据えた。マッキノンは漁業相になった。ハウは首相になるには「都合が悪い」のであり、サンローランを指示すると公に表明した。8月にサンローランが自由党首に選定され、最後は11月15日にマッケンジー・キングが辞任した。このときサンローランは66歳であり、マッケンジー・キングより7歳若いだけだったが、それでも新風が吹いたと見られた。ただし閣議は例外であり、マッケンジー・キングが禁じていた喫煙を認めた。 1948年10月、進歩保守党も新しい党首としてオンタリオ州首相ジョージ・A・ドルーを選んだ。ドルーはフランス系の強いその選挙区で3回連続で当選し、それが常に保守党の弱いケベック州だったので、全国レベルでもその成功を続けられると期待されていた。ドルーは党首選挙でもディーフェンベーカーを破った。サンローランは1949年6月に総選挙を行い、ハウは再度企業の後援者から資金集めに成功した。カナダ太平洋鉄道からイートンまで大企業が自由党の選挙運動資金を寄付した。選挙の結果は自由党が190議席を獲得し、保守党の40議席に対して大勝となった。ハウは再度ポートアーサーで楽勝した。ドルーはハウの記録を選挙の問題として使い、ハウが権力の狂人であり、国有企業を叩き売ったと非難したが、その言い分はあまり効果を得られなかった。ハウに拠れば、ドルーの攻撃の結果は「私にポートアーサーで記録的な多数の支持を与えた」だけだったと述べていた。 1950年初期、サンローランはハウのカナダ総督指名を推薦することを検討した。カナダ総督は常にイギリスの貴族が就任してきていた。多くの国粋主義者が、カナダ人にその地位を得させることを望んだ。サンローランも彼らと同じ考えだった。当時の総督アレクサンダー子爵は1953年までに引退する予定であり、そのとき、ハウは68歳になるはずだった。サンローランは、その友人かつ仲間が政界から退いて静かな生活に入る潮時だと見ていた。ハウは進んでその地位に就きたかったが、アレクサンダーがイギリスの閣僚に指名されて予想以上に早くその地位が空いた。ハウは大臣としての活動をまだ続けると決めた。また実権に代えて総督という名目上の権力を採ることに躊躇してもいた。サンローランはカナダ生まれのビンセント・マッシーの指名を推薦し、国王ジョージ6世がそのまま指名した。 マッケンジー・キングは1950年に死んだが、その時までにカナダは再度朝鮮戦争に参戦することになっていた。サンローランと外務相のレスター・B・ピアソンは前首相の葬儀から戻る列車の中で、軍隊の移動の計画を立てはじめた。ハウはその戦争を間違った場所での間違った戦争と見ており、カナダ軍を派遣するべきではないと考えた。それでも1950年の夏はそのデスクで過ごし、好況となった経済を政府が支配する計画を作った。1950年9月、ハウは民間の鉄鋼を軍用に使うなど、希少資源を配分しなおす法案を作った。この法案は成立したが、その後野党がハウは「権力に対して巨大な食欲を持っている」と非難してきた。その年の後期で、政府は大掛かりな再武装計画を決定した。政府の購買を担当した国営企業、カナディアン・コマーシャル・コーポレーションが、その任務に不適と思われ、政府は購買を担当する新しい省を作ることにした。1951年2月、サンローランが防衛生産省を創設する法案を提案し、その過程でハウがその担当相になると公表した。その防衛生産法に野党が反発し、ハウが望む権限を正当化するような緊急性が無いと主張した。ロバーツに拠れば、ハウは「自分に全権限を得て、緊急の仕事を行うためにあらゆる人とあらゆる物に対する運営権を」得ることで再武装を実行しようとした。自由党が絶対多数を確保していることで裏付けられ、この法案が成立し、1951年4月1日に防衛生産省が設立された。 1950年代の初期はカナダの繁栄の時代だった。ほとんどの年で政府予算は入超になった。1951年、政府は70歳から受け取ることのできる高齢者年金制度を導入した。失業率は小さく、失業保険基金は黒字であり、漁業者のような季節労働者までそれがカバーできた。サンローランの閣僚に対する監督はその任期初めに最小であり、さらに時の進行と共に減少した。野党は勢力が小さく、大臣は思うとおりに行動した。1951年、ブリティッシュコロンビア州トーリー党議員ハワード・グリーンから、ハウが民衆がやらせるならば関税を終わらせるつもりがあると非難されたとき、ハウは、「誰が我々を止めるだろう? あまり深刻に考えない方がよい。我々がそれを失くすことを望むならば、誰が我々を止めるだろう?」と答えた。 カナダ空軍用の初のジェット戦闘機CF-100 カナックの生産にアブロ・カナダが成功したにも拘わらず、航空機の開発は時間ばかり使って、費用が掛かりすぎることが分かってきた。計画されていた次世代航空機は、カナダで初の超音速ジェット迎撃機アブロ・カナダ CF-105だったが、財政的には着手を躊躇するような計画であり、技術的な飛躍も大きかった。ハウは1952年に防衛相のクラクストンに宛てて文書を書き、「私は防衛生産の経験において初めて驚愕を覚えている」と記した。 1953年初期、政府はその立法計画の残りを実行するために時間を割いた。サンローランは6月2日に予定されるエリザベス女王の戴冠式まで選挙を行うことを望まず最終的に8月10日に決まった。ドルーは有権者に対して大変多くの約束を行い、その年初期に発覚した防衛相のスキャンダルに乗じようとしたが、自由党が深刻に影響されることは無かった。自由党は1949年の最多獲得議席からは20議席を減らしたが、依然として下院のほぼ3分の2を占めており、閣僚は全て再選された。ハウもポートアーサーで容易に再選された。
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