サッカー関係者として
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浦和市立岸中学校から浦和市立南高等学校(後のさいたま市立浦和南高等学校)へ進学。高校時代は大型フォワードとして注目され、2年時の全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8進出に貢献し 大会優秀選手に選出された。卒業後の1985年に筑波大学体育専門学群へ進学し蹴球部に入部。同期には伊達倫央、鋤柄昌宏、山本富士雄らがいる。大学時代にセンターバックへコンバートされレギュラーを獲得すると、3年時から4年時にかけて関東大学サッカーリーグ戦連覇、4年時に関東選手権優勝、総理大臣杯優勝に貢献。また1988年には鋤柄や、1学年下の井原正巳や中山雅史と共に日本B代表に選ばれAFCアジアカップ1988予選に出場した。 1989年、大学卒業後に全日本空輸に入社し、全日空サッカークラブ(横浜フリューゲルスの前身)へ加入。1990年に日本サッカーリーグ選抜に選出され、1月22日に行われたバイエルン・ミュンヘン戦に出場した。日本代表としても同年8月のダイナスティカップやアジア競技大会、1991年のキリンカップサッカーの代表メンバーに選出され、国際Aマッチの出場はなかったが国際Cマッチ3試合に出場した。一方、同年10月16日に行われたコニカカップで審判への暴行事件を起こし1年間の出場停止処分を受けた。後に処分は7か月間に軽減され全日空サッカークラブの後身である横浜フリューゲルスに1シーズン在籍した。 1993年、Jリーグ開幕の際にはサンフレッチェ広島へ移籍したが、開幕前のキャンプで故障し出場機会を得ることが出来ず、同年7月7日に行われたガンバ大阪戦の後半終了直前にゴール前でG大阪のGK本並健治と交錯した際、本並の腹部を蹴りあげて腎臓を破裂させ、全治6か月の重傷を負わせた。試合は、延長開始直後に広島がVゴールを決めて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら本並は助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。本並は、選手生命は疎か命の危機に晒されることとなった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後日ことの大きさを問題視した広島側は試合映像等で確認した。その結果不可抗力での事故であるとチーム内での確認及びJリーグへの報告を行った[要出典]。 1994年、故郷の浦和レッドダイヤモンズに移籍。プレシーズンマッチのベルマーレ平塚戦ではヘディングで先制点を決める活躍を見せたが、サントリーシリーズ開幕戦の横浜マリノス戦ではラモン・ディアスを背後から倒し退場処分を受け、第3節のジェフユナイテッド市原戦では城彰二への危険なタックルなどで前半32分までに二度の警告を受け退場処分となり、、2試合の出場停止処分を科せられた。さらに21節では累積警告が3となり、3試合の出場停止処分を科せられた。田口はシーズンを通算6試合の退場処分を受け、チームやサポーターの信頼を失った。 1995年、ホルガー・オジェックが監督に就任すると意識改革に成功。フィジカルの強さを生かしながら反則を犯さずに相手からボールを奪取するクリーンなプレーが可能となり、サントリーシリーズでの上位進出の原動力となった。一方、ニコスシリーズ第9節の横浜M戦から3連敗を喫すると同年9月23日の名古屋グランパスエイト戦後にサポーターへの暴行事件を引き起こし、4ヶ月の出場停止処分を受けた。埼玉県内のリハビリ施設や養護施設でのボランティア活動を経て、復帰後はオジェックの下で再び出場機会を得てギド・ブッフバルトやバジール・ボリと共に堅固な守備陣を形成した。 その後は怪我により約2年間戦列を離れ、復帰戦となった1998年10月3日のアビスパ福岡戦の55分にピッチに立つと82分までに2度の警告を受け退場処分を受けた。この試合を最後に同年限りで現役を引退した。 2001年から、さいたまレイナスFC(現、浦和レッドダイヤモンズ・レディース)で女子サッカーの監督に就任。2004年度のL1リーグ初優勝に導くが、翌年の浦和レッドダイヤモンズ・レディースへの組織変更に伴って退任した。 その後、なでしこリーグ実行委員会委員長と専務理事に就任。リーグのトップとして、国際女子サッカークラブ選手権の創設(2012年)や、2シーズン制の導入となでしこリーグカップの廃止(2014年)、2015年からの3部リーグ制の導入を決定するなどした。2014年7月、ASエルフェン埼玉の主催試合において、医師資格を持たない整体師がマッチドクターとして置かれていたことが発覚、さらに9月にはジェフ千葉レディース総監督の上村崇士によるセクハラ問題が起こるなどリーグの不祥事が相次ぎ、9月末に開かれた理事会で田口のマネジメント能力についての審議と、本田一男理事長からの辞任勧告が行われた。これを受け、田口は同月30日付で専務理事を辞任した。
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