そのほか近世前期の国体思想とは? わかりやすく解説

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そのほか近世前期の国体思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)

国体」の記事における「そのほか近世前期の国体思想」の解説

西川如見(1648-1724)は蘭学によって地理学修め、『日本水土考』を著し日本列島地理上の優位性日本の神国たる所以論じた蘭学者西洋崇め自国卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者ありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学影響及ぼした西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。 我が国万国の東の頭にあって朝日最初に照らす地である。日本という国号当たっている。 日本神国であることは水土自然の理であろう日本は清陽中正水土である。このため神明はここに集まる。 この国の四季中正である。万国広大であるが、我が国のように四季正しい国は多くない国土広くもなく狭くもない。人事風俗民情均一であって治まりやすい。このため日本皇統開闢より現在まで不変である。このことは万国中でも日本しかない。これも水土神妙なかろうか日本水土の要害万国でも最上である。浦安大城住み、千矛の武器備えて天地無窮である。 その民は神明の子孫であり、その道神明遺訓である。 清浄潔白愛し質素朴実を楽しむのは即ち仁勇の道にして知性自然と充足する。これは自然の神徳である。貴いではないか。以上。 荻生徂徠(1666-1728)に始まる江戸の物門流人々国体論は、自国尊重論とは正反対であった荻生徂徠本人国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない徂徠門下太宰春台もまた唐土聖人の道を崇拝し日本夷狄の国とするものであって儒教輸入以前日本国体道徳取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した同門山県周南また、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた。以上のような物門流極端な唐土崇拝は、一部儒者反発招き、また後年流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった石田梅岩(1685-1744)は、心学の徒であり、『都鄙問答』において日本皇統神孫であって唐土とは尊卑異なることを論じて我が朝には大神宮御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮宗廟とあがめ奉り一天の君御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた竹内式部(1712-1768)は宝暦事件張本人として討幕運動先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して天皇神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神御末なれば、直に神孫申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君敬い尊び各々品物才能尽くして御用立て二心なく奉公し奉ることなり故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国大義なり」と。 山県大弐(1725-1767)は山崎闇斎門下三宅尚斎門下加々美塢の門下(つまり山崎闇斎曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本優越皇統不可侵論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した。 平賀源内(1728-1780)は戯作者であるが、儒学者シナ崇拝反発して近世後期流行する自国尊重論を先取りし戯作風流志道軒伝』にて次のように説いた井戸育った.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}(かえる)学者が、めった〔やたら〕に唐(から)贔屓(びいき)になって我が生まれた日本東夷称し天照大神は呉(ご)太伯たいはく)に違いないと、附会(ふかい)の説(こじつけ説)を言い散らし文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、知行ちぎょう)の米(給与米)を周の升(古代シナ小さ)で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが制札せいさつ)(法律)の多き見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教え出来、病(やまい)ありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本違って天子渡り者同様にて、気に入らねば取り替えて天下(てんか)は一人天下にあらず天下天下なりと、減らず口言い散らして、主の天下ひったくる不埒千万(ふらちせんばん)なる国ゆえ、聖人出で教え給う日本自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても太平たいへい)をなす。 中井竹山(1730-1804)は大阪在住朱子学者であるが、世間儒学者流が漢土尊び自国卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流態度非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的書かれたものであるまた、松平定信諮詢答えて草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて百王不易四海万国超越する美事であるが、朝廷衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養散財したことが原因であると論じた

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