そのほか近世前期の国体思想
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西川如見(1648-1724)は蘭学によって地理学を修め、『日本水土考』を著し、日本列島の地理上の優位性や日本の神国たる所以を論じた。蘭学者が西洋を崇め自国を卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者でありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学に影響を及ぼした。西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。 我が国は万国の東の頭にあって朝日が最初に照らす地である。日本という国号は当たっている。 日本が神国であることは水土自然の理であろう。日本は清陽中正の水土である。このため神明はここに集まる。 この国の四季は中正である。万国は広大であるが、我が国のように四季の正しい国は多くない。 国土は広くもなく狭くもない。人事風俗民情は均一であって治まりやすい。このため日本の皇統は開闢より現在まで不変である。このことは万国の中でも日本でしかない。これも水土の神妙でなかろうか。 日本水土の要害は万国でも最上である。浦安の大城に住み、千矛の武器を備えて、天地無窮である。 その民は神明の子孫であり、その道は神明の遺訓である。 清浄潔白を愛し質素朴実を楽しむのは即ち仁勇の道にして知性が自然と充足する。これは自然の神徳である。貴いではないか。以上。 荻生徂徠(1666-1728)に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない。徂徠門下の太宰春台もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した。同門の山県周南もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった。 石田梅岩(1685-1744)は、心学の徒であり、『都鄙問答』において日本の皇統が神孫であって唐土とは尊卑が異なることを論じて「我が朝には大神宮の御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮を宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた。 竹内式部(1712-1768)は宝暦事件の張本人として討幕運動の先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して、天皇を神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神の御末なれば、直に神孫と申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各々品物の才能を尽くして御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国の大義なり」と。 山県大弐(1725-1767)は山崎闇斎門下の三宅尚斎の門下の加々美桜塢の門下(つまり山崎闇斎の曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本の優越と皇統の不可侵を論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した。 平賀源内(1728-1780)は戯作者であるが、儒学者のシナ崇拝に反発して近世後期に流行する自国尊重論を先取りし、戯作『風流志道軒伝』にて次のように説いた。 井戸で育った.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}蛙(かえる)学者が、めった〔やたら〕に唐(から)贔屓(びいき)になって、我が生まれた日本を東夷と称し、天照大神は呉(ご)太伯(たいはく)に違いないと、附会(ふかい)の説(こじつけ説)を言い散らし、文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、知行(ちぎょう)の米(給与米)を周の升(古代シナの小さい枡)で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが制札(せいさつ)(法律)の多きを見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教えは出来、病(やまい)ありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本と違って天子が渡り者と同様にて、気に入らねば取り替えて、天下(てんか)は一人の天下にあらず天下の天下なりと、減らず口を言い散らして、主の天下をひったくる不埒千万(ふらちせんばん)なる国ゆえ、聖人出でて教え給う。日本は自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても太平(たいへい)をなす。 中井竹山(1730-1804)は大阪在住の朱子学者であるが、世間の儒学者流が漢土を尊び自国を卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流の態度を非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的で書かれたものである。また、松平定信の諮詢に答えて『草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて、百王不易は四海万国に超越する美事であるが、朝廷が衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養に散財したことが原因であると論じた。
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