『中央公論』から執筆依頼
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「のんきな患者」の記事における「『中央公論』から執筆依頼」の解説
基次郎はこれまでにない身体の悪化を感じながら、創作集のゲラ刷りの校正連絡などを母に手伝ってもらい、1931年(昭和6年)4月も床の中で再校までの目を通した。この頃基次郎は、再び見舞いに来た辻野久憲に、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読んで以来、自身の過去の作品のような芸術観に飽き足らなくなったと漏らした。 陽気が暖かくなり、やや調子を戻した基次郎は、少しでも良くなりたい一心で、近所の人が殺したマムシをもらって肝臓と心臓を生で飲み、肉は干物にして少しずつ焼いて毎日食べ、煙草もすっぱり止める決意の下で「禁煙日記」を付け始めるが、死が近づいていることを明白に自覚していた。 東京を去ってから3年間、病状が悪化していく現状を基次郎は受け止め、〈なにしろこの病気は今や僕の現実の全部だ。いろんなことを考える。考えたことはみな書き度い。しかし自由に書けない〉という歯がゆい思いであった。 僕も病気がだんだん苦しくなつて来るので困つてゐる、一月の十日に寝ついて それ以来ずつと寝巻きのままで着物を着たことがない 床の上ばかりだ 三年も前は自然や風景をのみ眺めてゐた眼は 必然心のなかへ向けられる。これが実に苦しいのだ。しかしこれまでほつておいたのだから 何とも致し方ない。生きるにも死ぬるにも この荒廃の地を何とかしなくてはならない。死ぬことは人間としてあきらめなければならないが、こんな心の状態のままで死ぬことは実際恥辱にちがひない。僕は今年になつて、人間三十一、いろんな省察もだんだん地について来たことを感じる。仕事をしても これまでの仕事よりはずつとしつかりしたものが書けるにちがひない、こんな心の状態から何か書き出したい 何時もそのことばかり思ふのだが それも感傷主義、病気のためには超克すべき苦患かもしれない、 — 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(昭和6年5月5日付) そして5月に刊行された初の創作集『檸檬』に喜びを感じると共に、〈病気のことを考へると「うーん」と絶句して〉、まだ元気だった頃の〈怠慢〉を基次郎は痛感した。また、この過去の作品群より以上の作品を書けるという心持で、〈ただ要は誰がどうあらうとも僕だけは完全にこの作品群を踏み越したのです。僕はもう振向かない〉と抱負を抱いた。 創作集『檸檬』は売れなかったが、贈呈した作家からの反響は徐々に広まり、中央文壇の文芸雑誌『中央公論』の編集部員・田中西二郎から基次郎の元へ執筆依頼の手紙が5月28日に来た。田中はまだ東京商科大学予科の学生だった頃(後輩に伊藤整がいた)、『青空』に掲載された基次郎の『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン』(1926年7月)を読んで着目していたこともあり、創作集の作品群で改めて基次郎の才能を確認した。 ただし中央公論社の社長らは基次郎の名を知らなかったため、掲載の条件として原稿「持ち込み」という形を取ってほしいと田中に言われ、基次郎はそれに応じた。ところが、意気込んで仕事に取りかかろうとした6月中旬、兄嫁・あき江の実家(紀州)の人が湯崎で捕まえ1か月飼って太らせ送ってくれたマムシの生き肝を飲み、痒みや浮腫が顔や体中に出て腎臓炎となる災難があり、1か月ほど中断されて出鼻をくじかれてしまった。 文芸評論家からも創作集の好評を得た基次郎は、プルーストの『失ひし時を索めて』も読んだことで創作意欲が刺激され、夏頃から徐々に『のんきな患者』の執筆作業に取りかかった。8月には、困窮する母や弟が待望していた本の印税がやっと入った。 原稿の進捗が上手くいかず何度も書きつぶしていた基次郎は、「持ち込み」という形の掲載条件では本当に掲載されるのか不明で、まるでテストを受けるかのような気分では仕事がはかどらないという主旨を、北川冬彦を通じて田中西二郎に伝えてもらった。田中は、その申し出をもっともなことだと基次郎の態度に感心し、編集会議にかけ正式な執筆依頼という形にすることを考えた。 そんな中、9月下旬、基次郎になついて離れ家に遊びにいく子供らに、兄嫁・あき江が「そばに寄ったら病気が移る」と注意したのを聞いた基次郎が怒り、兄嫁は子供2人を連れ実家へ帰ってしまうという揉め事があった。10月、大阪の弟・勇が迎えに来て、基次郎は母と共に住吉区王子町の実家に戻っていった。王寺駅で呼吸困難となった基次郎を、勇は背中に負ぶって駅の階段や家の階段を上った
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