『中将姫古跡の松』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 09:13 UTC 版)
『鶊山姫捨松』は初演以降しばらく上演が途絶え、人形浄瑠璃で再び上演されるようになったのは寛政9年(1797年)2月、大坂道頓堀東の芝居においてであった。この時『中将姫古跡の松』と外題を改め、三段目だけが上演された。以後も三段目だけの上演となり、『中将姫古跡の松』の外題も上演に際して多く使われている。その三段目も現在は「豊成館」の後半に当たる「中将姫雪責め」の段が上演されるのみである。 歌舞伎では宝暦10年(1760年)の大坂天満天神境内の芝居に、『鷓山姫捨松』の外題で三段目のみを上演したのが古い例として知られる。その後天明5年(1785年)の大坂北新地の芝居では初段から三段目までに当たる場面を上演しているが、これは原作の内容をいくらか書き替えたものであったらしい。なお嘉永5年(1852年)の11月に江戸市村座で『鶊山姫捨松』が上演されているが、絵本番付や役割を見るとこれも内容の大きく異なる書替え物と考えられる。 現在歌舞伎で上演されるのは、明治17年(1884年)2月の東京春木座で上演された『中将姫当麻縁起』のうちの一幕に当たるものがもとになっており、三代目河竹新七が三段目雪責めの場面を脚色したものである。ただしこのときの役名は中将姫が中静姫、岩根御前が照日の前となっていた。のちに明治20年(1887年)に五代目中村歌右衛門(当時中村福助)が再び役名を中将姫に戻して演じた。五代目歌右衛門はこの芝居をできる限り高尚に演じることを心がけ、この中将姫を仏の化身のつもりで、普通の女のように演じてはならないと述べている。以後六代目歌右衛門も演じているが、現在では歌舞伎での上演回数は決して多いとはいえない。
※この「『中将姫古跡の松』」の解説は、「鶊山姫捨松」の解説の一部です。
「『中将姫古跡の松』」を含む「鶊山姫捨松」の記事については、「鶊山姫捨松」の概要を参照ください。
- 『中将姫古跡の松』のページへのリンク