「再発見」と漁民の入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:12 UTC 版)
「ニューファンドランド島」の記事における「「再発見」と漁民の入植」の解説
ノース人の放棄後、500年間にわたりヨーロッパ人の来訪がなかった島は、1497年のイタリア人航海者ジョン・カボットが再発見し「テラ・ノヴァ」と命名したことによりヨーロッパ人の知るところとなる。ジョン・カボットの上陸地点は島の東海岸のボナヴィスタ(Bonavista)と一般には信じられているが、グレート・ノーザン半島の先端のケープ・ボールド(Cape Bauld)など、東海岸の他の場所にも上陸地点ではないかという説がある。ケープ・ボールド説には、スペインの国立公文書館で発見されたブリストル商人の文書に、カボットたちがダージー・ヘッド(北緯51度34分)の1800マイル西へ進んだところに上陸したという記述があるが、この地理的位置はケープ・ボールドにだいたい合致する。同じ記録ではカボットが島本土上陸前に通り過ぎた小島の話があるが、ケープ・ボールドの海岸からベル島まではそう遠くないこともこの説を補強する。 カボットの後、ニューファンドランドにはポルトガル人、スペイン人、フランス人、バスク人、イングランド人などの漁師たちがたどり着いた。17世紀末、アイルランド人の漁師たちはこの島に「魚の島」あるいは「魚の土地」という意味の「Talamh an Éisc」という名をつけた。これはその後数世紀にわたるニューファンドランド沖合いのタイセイヨウダラ漁の重要性を予言するものだった。 この島に対するフランス語の名前は「Terre Neuve」(テル・ヌーヴ、新しい土地)である。英語の名前「Newfoundland」(ニューファンドランド、新しく見つかった土地)も1502年の書簡に最初の使用が認められ、地理学上も地図学上も絶えず使用され続けてきたカナダ最古のヨーロッパ人起源の地名の一つである。 1583年、イングランドの探検家サー・ハンフリー・ギルバート(Sir Humphrey Gilbert)がこの島に航海した時にはセントジョンズ付近でイングランド・フランス・ポルトガルの多くの船に遭遇したが、彼は公式にニューファンドランドはイングランドの植民地だと宣言した。しかし恒久的なヨーロッパ人の住民がなかったこと、ギルバートが帰路命を落としたことにより、イギリスの入植計画は頓挫した。 1610年7月5日、ブリストルの商人ジョン・ガイ(John Guy)はブリストルを発ち、39人の植民者とともにニューファンドランド島南西のクーパーズ・コーヴ(Cuper's Cove)に到達した。それ以前の恒久入植の試みも、この入植も、イングランドの投資家を儲けさせるほどの利益は生まなかった。しかしこの植民で、なんとかヨーロッパ人による入植地が形を成した。1620年までにイングランド西部の漁民はニューファンドランド島東海岸のほとんどから他国民を締め出したが、フランス人漁民は島の南岸および北の半島部を確保し続けた。ジョン・ガイ以降多くの港に入植が行われ各々に総督が立った。南部では1623年、ジョージ・カルヴァート(George Calvert)が勅許を得て植民活動を行い、カトリック教徒主体の植民地・アバロン領を現在のアバロン半島に樹立した。島全体の司法権を与えられた最初の総督はサー・デイヴィッド・カーク(David Kirke)で、1638年のことだった。1690年代、フランスの探検家ピエール・ル・モワン・ディベルヴィル(Pierre Le Moyne d'Iberville)が英仏間で境界をめぐる問題となっていたアカディア周辺を攻撃した時にニューファンドランド諸港も攻撃され、危うく征服されるところであった。これに対してイギリスは、スペイン継承戦争の最中の1702年にニューファンドランドとその周辺に海軍を送り(ニューファンドランド遠征)、ニューファンドランド周辺のフランス入植地を壊滅させた。フランスもこれに対し、ミックマック族やフランス人入植者と組んでセントジョンズの包囲戦など攻撃を繰り返し、1709年のセントジョンズの戦いでは一時イギリス人を追い出して占領に成功した。しかし1713年のユトレヒト条約でニューファンドランドはイギリス領となり、フランス人入植者はイル・ロワイヤル(現在のケープ・ブレトン島)へと移転した。 フランスが北米植民地から撤退することとなったパリ条約 (1763年)の後、フランス人は島南部と北部の海岸の支配権をイギリスに譲渡したが、南岸沖のサンピエール島・ミクロン島の領有権は、これらの小島がニューファンドランド東南沖合いの好漁場グランドバンク(ニューファンドランドバンク)に位置するため、そのまま維持し続けた。イングランド人が最初期にニューファンドランドに入植したにもかかわらず、イギリス政府は、出稼ぎ漁民たちによる恒久的な年間を通した居住地作りを思いとどまらせていた。しかし島の孤立した入り江が地理的にイギリスから隔たっており監視の目から逃れられたこと、イギリスから大西洋を二年ごとに渡らずともニューファンドランドに住めば好漁場に一年中出られることから、18世紀末には恒久的な村が急速に増え、19世紀初頭には入植がピークに達した。 ニューファンドランドに入植したヨーロッパ人移民たちはそれぞれの知識、信仰、政府への忠誠、偏見などを持ち込んだ。しかし彼らが新天地に築いた社会は祖国の社会とも、同時期に移民たちがアメリカ大陸本土で築いていた社会とも異なるものだった。魚の輸出が主産業の社会として、ニューファンドランドは環大西洋の多くの国と交易しさまざまな文化が流入した。一方で地理的に隔絶した位置や政治的差異のため、カナダやアメリカからも孤立しており、今日に至るも両者からの距離感は残っている。島内では、人口の大半はでこぼこした海岸線全体に薄く広がり、各地にアウトポート(outport)と呼ばれる小さな港町を作っていた。その大半は島内の人口の中心地から遠く離れ、冬季には流氷や悪天候で長期間孤立する。これら孤立した環境は移民たちの持ち込んだ文化に影響し、土地に合った思考様式や行動様式を生み出し、ニューファンドランド・ラブラドール州一帯に独特な習慣、信仰、民話、民謡、方言の多様さを発生させた。
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