1943年~1944年(地中海)
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「ヴァルカン (工作艦)」の記事における「1943年~1944年(地中海)」の解説
ヴァルカンは6月8日から22日までノーフォークで修理を行った後、地中海へ移動し6月27日にアルジェリアのオランへ到着した。6月終わりにはアルジェへ移ったが、ヴァルカンはそこで炎上するイギリスの弾薬輸送船アローに対して消火・救援要員を送った。ヴァルカンの水兵3名がボートで炎上するアローへ接近すると、舷側の外板を切断して下甲板に閉じ込められたイギリスの水兵たちを助け出した。この勇敢かつ機知に富んだ行動により、3人の水兵はイギリス政府およびアメリカ海軍、アメリカ海兵隊から勲章を授与された。 ヴァルカンは1944年夏まで北アフリカ沿岸で行動し、同年8月から9月まで南フランスへの上陸作戦であるドラグーン作戦を支援する。作戦に参加する艦艇や舟艇に対する修理活動の功績により、ヴァルカンは従軍星章(英語版)1個を受章した。
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1943年 - 1944年
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「サンフランシスコ (重巡洋艦)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説
1943年(昭和18年)2月26日、戦列に復帰したサンフランシスコは PW2211船団を護衛し、南太平洋に向かった。3月20日にヌメアに到着した後、5日後にエファテ島に向かい、4月中に真珠湾に帰投した。サンフランシスコはアリューシャン方面の戦いに投入されることとなり、北太平洋部隊の第16任務部隊に合流。月末にアラスカに到着すると、サンフランシスコはアダック島を拠点に行動し、5月のアッツ島の戦いおよび7月のキスカ島奪還では護衛、海上封鎖、対地砲撃をおこなった。 「キスカ島撤退作戦」も参照 7月23日、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダー捕捉し、艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は日本艦隊とみて直ちに迎撃作戦に移った。しかし、当時、この海域には日本艦船は存在しておらず、これは全くの事実誤認であった。7月26日、濃霧の中で戦艦ミシシッピー (USS Mississippi, BB-41) のレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉。艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイドは直ちにレーダー射撃を開始させ、戦艦や巡洋艦が砲撃をおこなった。約40分後、反応は消失した。しかし、不思議なことにサンフランシスコのレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった(ピップスの戦い)。この際米軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている。この誤認攻撃の状況に関して、米艦隊が打電した砲撃データの電文を日本艦隊は全て傍受しており、また平文で打電されていたために「米軍は同士討ちをやっている」と日本軍は思ったという。7月28日(ケ号作戦実行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイドは弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。翌日、周辺海域からアメリカ艦隊がいなくなっているとは知らずにキスカ島撤収部隊(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)が突入し、キスカ島から陸上部隊を撤退させた。 7月30日、日本軍守備隊が撤退したとは知らず、補給が終わったアメリカ軍は封鎖を再開した。8月15日にサンフランシスコはキスカ島の上陸作戦であるコテージ作戦に参加し、艦砲射撃などの支援を行った。9月中旬に真珠湾に帰投したサンフランシスコは、9月29日に第14.2.1任務群に加わり、ウェーク島攻撃に向かった。任務群は10月5日にウェーク島近海に到着し、日本軍守備隊の射程圏内を航行した。10月11日、任務群は真珠湾に帰投した。 次いでサンフランシスコはガルヴァニック作戦に参加し、ブタリタリ沖に到着した後、ベティオ島(英語版)に対する事前砲撃に参加し、ブタリタリ西方の補給路を確保した。11月26日、サンフランシスコはヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) 、レキシントン (USS Lexington, CV-16) 、カウペンス (USS Cowpens, CVL-25) 、5隻の巡洋艦および6隻の駆逐艦からなる第50.1任務群に加わり、クェゼリン方面の日本軍施設への攻撃に向かった。12月4日、艦載機が目標に向かった後、正午前後から日本機の反撃が始まった。12時50分、サンフランシスコは左舷艦首方向から3機の雷撃機の突入を受けたが、そのうちの2機はサンフランシスコに対して機銃掃射を行ったものの対空砲火で撃墜され、残る1機もヨークタウンからの射撃で撃墜された。機銃掃射により1名が戦死し22名が負傷した。日が落ちてから再び日本機の攻撃があり、レキシントンが雷撃されて損傷した。任務群は北に西にと行動し、12月5日1時30分以降はレーダースクリーンから日本機が消えた。翌日、サンフランシスコは真珠湾に向かった。 1944年1月22日、サンフランシスコは第52任務部隊の一艦として再びマーシャル方面に向かった。1月29日、任務部隊はクェゼリンの戦いの支援でマロエラップ環礁の日本軍施設に対する攻撃を行った。攻撃後クェゼリンに向かい、1月31日6時30分に作戦海域に到着したサンフランシスコは、7時30分から環礁内のあらゆる目標に向けて臨機応変に発砲した。8時49分に一旦発砲を中止し、9時に再開。サンフランシスコは環礁内の島々に対して艦砲射撃を行い、それは日没時まで続けられた。2月8日、サンフランシスコはマジュロに向かい、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に合流した。 2月12日、サンフランシスコは第58.2任務群の一艦としてマジュロを出撃。4日後、第58任務部隊はトラック島空襲を行った。2月16日から17日にかけての深夜、イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) が魚雷の命中により損傷。サンフランシスコは後送されるイントレピッドの護衛に途中まであたった。2月19日にイントレピッドは2隻の駆逐艦とともに真珠湾に回航され、サンフランシスコは他の艦船とともにマジュロに向かった。2月25日、サンフランシスコは第58.2任務群とともに真珠湾に向かった。1ヵ月後の3月20日、第58.2任務群はマジュロに進出し、3月22日にパラオおよびカロリン諸島への攻撃に出撃した。3月30日から4月1日にかけて艦載機がパラオとウォレアイ環礁を攻撃し、サンフランシスコは観測機を救助活動に活用した。4月6日に帰投し、一週間後に任務群はホーランジアの戦いの支援で出撃した。4月21日から28日まで第58.2任務群はホーランディアに対する上陸作戦を支援した後、4月29日にトラック諸島を再度攻撃。サンフランシスコは4月30日に、他の8隻の巡洋艦とともにサタワン環礁への砲撃を行った。砲撃後は第58.2任務群に合流し、マーシャル諸島に向かった。 マジュロに帰投後、クェゼリンに移動したサンフランシスコは、第53.15任務群とともにサイパンの戦いに参加するため、6月10日に出撃した。6月14日から2日間、サンフランシスコはテニアン島に対して砲撃を行い、一時第9巡洋戦隊の指揮下に入って6月16日にグアムを砲撃した。日本艦隊がサイパンに向かいつつあるという報に接し、サンフランシスコはサイパン島沖に戻った。6月17日に補給を行ったサンフランシスコは、2日後のマリアナ沖海戦に参加。10時46分頃から攻撃を受けたものの、日本の艦載機は対空砲火と上空援護の戦闘機により部隊から30キロ以内に立ち入ることすら難しかった。11時46分、サンフランシスコは重巡インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) とともに対空射撃を行い、正午までには静けさが戻った。6月20日、サンフランシスコは逃げる日本艦隊の追撃に加わったが、翌日までにはサイパン島沖に戻って援護射撃を再開した。7月8日、サンフランシスコは再びグアム沖に現れ、アガットとハガニアに対して砲撃を行った。7月12日にサイパン島沖で補給を行い、7月18日にはグアム沖に戻った。 7月18日から20日にかけてはアガットとファチ岬沖で水中破壊チームの支援を行い、日本軍に陣地を整えさせる暇も与えなかった。7月21日にアガットビーチに陸上部隊を上陸させ、7月24日にはオロテ岬(英語版)に対して砲撃を行った。7月30日に作戦海域を離れ、エニウェトク環礁と真珠湾を経由しサンフランシスコに向かった。8月16日に到着した後、オーバーホールに入った。 10月31日、オーバーホールが終わったサンフランシスコは西に向かい、11月21日にウルシー環礁に到着し、第6巡洋戦隊の旗艦となった。12月10日、サンフランシスコは第38.1任務群とともにウルシーを出撃し、フィリピン攻撃に向かった。12月14日から15日にかけて、艦載機はフィリピン各地を空襲し、サンフランシスコの艦載機は対潜哨戒と救助任務にあたった。12月16日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン中将)は第30.17任務群と合流して洋上補給を行う予定だったが、コブラ台風に遭遇し給油活動は中止。その後2日間にわたって任務部隊は台風に翻弄された。12月19日、サンフランシスコは台風で沈没した3隻の駆逐艦の生存者捜索にあたった。第38任務部隊は翌12月20日にフィリピンへの攻撃を再開すべく西に向かったが空襲できる状況になく、12月24日にウルシーに帰投した。
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1943年 - 1944年
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「電 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説
1943年(昭和18年)1月30日、「電」は北方部隊に編入され、挺身輸送部隊に属した。2月6日、「電」は「多摩」とともに横須賀発。2月9日、大湊着。同日、「君川丸」とともに幌筵へ向かい、2月12日着。2隻は即日出港。「君川丸」はアッツ島への搭載機の輸送を行い、2月15日に2隻は柏原湾に帰着した。2月18日、第十五船団として第三十二防空隊、第三十設営隊基幹員および飛行場資材を運ぶ「粟田丸」を軽巡洋艦「阿武隈」とともに護衛して幌筵からキスカ島へ向けて出港。このころアッツ島方面にはアメリカ艦艇が出現し、2月20日にはアッツ島へ向かっていた「あかがね丸」が撃沈されたが、「粟田丸」による輸送は成功した。「電」と「阿武隈」は2月21日に「粟田丸」をキスカ島へ向かわせ、2月25日に幌筵に帰着した。アメリカ水上部隊による「あかがね丸」撃沈により北方部隊はその大半を輸送作戦に投入することとなり、第一水雷戦隊(駆逐艦「初春」、「響」欠)は護衛部隊となった。3月7日、水上機や飛行場資材、人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦「那智」など巡洋艦4隻は3月7日に幌筵海峡より出撃。3月10日に揚陸成功し、3月13日に全部隊幌筵海峡に帰投した。 3月23日には、北方部隊主力と共に特設巡洋艦浅香丸(日本郵船、7,398トン)と陸軍輸送船崎戸丸(日本郵船、9,245トン)を護衛して幌筵島を出撃してキスカ島に向かう。北方部隊は3月27日に「ソック」チャールズ・マクモリス少将のアメリカ艦隊と遭遇してアッツ島沖海戦が生起する。第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将(旗艦那智)が指揮する日本艦隊は、主隊(第二十一戦隊《那智、摩耶、多摩》、第21駆逐隊《若葉、初霜》)、護衛部隊(第一水雷戦隊《阿武隈》、第6駆逐隊《雷、電》)、「ロ」船団(浅香丸、崎戸丸)という、重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦4隻だった。一方、チャールズ・マクモリス少将指揮下の米艦隊は重巡2・軽巡1・駆逐艦4だった。電は海戦の直前に浅香丸、崎戸丸を護衛して北西方向に針路を変え、海戦自体には参加しなかった。電に戦果はなかったが、那智、摩耶、多摩、阿武隈、若葉、初霜、雷の戦闘は稚拙そのものだった。電側は戦闘に参加した第五艦隊各艦の消極的姿勢を強く非難している。 その後は北方海域を離れて4月16日に横須賀に帰投し、30日まで整備が行われた。この間の4月1日、第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊(木村進少将)に編入される。4月15日以降は内南洋部隊に転属して日本本土とトラック間の船団護衛任務に従事することとなった。5月5日にトラックに進出する練習巡洋艦香取の護衛が内南洋部隊での初任務であり、以降12月までの間、雷とローテーションを組んで横須賀とトラック間の船団護衛任務で7往復、平均して1か月あたり1往復と4分の1回のペースで船団護衛任務に明け暮れた。任務の合間を縫って10月6日から24日まで横須賀海軍工廠で修理を受ける。11月に入って護衛任務に戻り、12月には陸軍部隊をトラックからクサイ島まで輸送。12月27日に響とともに空母飛鷹、龍鳳を護衛してトラックを出港し、年改まった1944年(昭和19年)1月2日に呉に到着した。 1944年1月6日、電は響、薄雲とともにマニラへの航空機輸送任務を行う空母海鷹、神鷹の護衛のため佐伯を出港するが、神鷹の機関不調により輸送作戦は一時中止となった。12日に神鷹、薄雲を外して再度佐伯を出撃し、1月16日にマニラに到着。以後シンガポール、タラカン島、パラオを経て2月11日にトラックに到着し、2日後の13日にトラックを出港して19日に呉に帰投した。2月23日からは空母千代田による輸送作戦の護衛にあたり、特設運送船(給油)「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)を加えて3月1日に横須賀を発ち、サイパン島、グアム、パラオ、バリクパパンと寄港。その途中の3月18日には、タウィタウィ近海でアメリカ潜水艦ガンネルに発見されるが、ガンネルは9,000ヤードより距離を縮めることができず、電は響と共同で16発の爆雷を投下してガンネルを追い払った。バリクパパンで燃料補給ののち、東進してパラオに向かう途中の3月22日に再びガンネルに発見されるも、11,000ヤード離れて15ノットで航行されては、ガンネルにとっては手の尽くしようもなかった。3月27日にパラオを出港して再度バリクパパンに向かい、給油ののちダバオに向かった。その後は4月4日にダバオを出港して4月10日に呉に帰投。響とともに呉海軍工廠で4月10日から30日まで修理を行うが、この時に二番砲塔を撤去したものと推定され、25ミリ単装機銃2基が増備された。また、この修理までに25ミリ連装機銃2基の装備も行われた。修理中の4月13日、姉妹艦雷がアメリカ潜水艦によって撃沈され、第6駆逐隊は電、響の2隻となった。
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1943年 - 1944年(昭和18年 - 昭和19年)
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「雷 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年 - 1944年(昭和18年 - 昭和19年)」の解説
雷の損傷修理は1943年(昭和18年)1月28日に終わり、1月30日に北方部隊に編入の上、那智を護衛して2月3日に横須賀を出撃した。しかし不具合があり2月6日に横須賀に引き返したあと、2月20日まで再修理。2月20日に重巡洋艦「摩耶」とともに横須賀を出港し、大湊経由で2月27日に幌筵海峡に到着。 2月20日にアッツ島へ向かっていた「あかがね丸」がアメリカ水上艦艇に撃沈されたことから北方部隊はその大半を輸送作戦に投入することとなり、第一水雷戦隊(駆逐艦「初春」、「響」欠)は護衛部隊となった。3月7日、水上機や飛行場資材、人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦「那智」など巡洋艦4隻は3月7日に幌筵海峡より出撃。3月10日に揚陸成功し、3月13日に全部隊幌筵海峡に帰投した。 3月22日、2度目のアッツ島への輸送作戦で那智、羽黒等と輸送船2隻を護衛して幌筵島を出撃するが、その途中の3月27日、アッツ島沖でアメリカ艦隊と遭遇し交戦(アッツ島沖海戦)。雷は海戦で主砲を13発撃っただけにとどまった。幌筵島に帰投後の3月30日、嵐のため抜錨作業中に幌筵海峡で駆逐艦若葉の前部右舷への接触事故をおこして艦首が圧し潰れる損傷をこうむった。大湊で応急修理の後4月8日に出港し、途中不具合による大湊への反転を挟んで4月11日に横須賀に帰港、4月30日まで修理が行われた。 この間の4月1日、第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊(木村進少将)に編入される。4月15日以降は内南洋部隊に転属して日本本土とトラック間の船団護衛任務に従事することとなり、5月4日に特設巡洋艦盤谷丸(大阪商船、5,351トン)と特務艦間宮を護衛して佐伯を出撃し、5月12日にトラックに到着。トラック止まりの間宮はここで分離し、5月16日に引き続き盤谷丸を護衛してトラックを出撃しジャルート環礁に向かう。この途上、5月20日午後にジャルート環礁ジャンボール水道付近にいたったところでアメリカ潜水艦ポラックに発見され、ポラックの雷撃により盤谷丸は被雷沈没した。雷は爆雷で反撃を行ったが、ポラックに損傷を与えただけで取り逃がした。以降1944年(昭和19年)4月までの1年近くの間、雷は船団護衛任務に従事した。任務の合間を縫って1944年1月6日から13日の間に横須賀で工事を行い、水中聴音儀と電波探知機(逆探)の装備および艦橋前の13ミリ連装機銃の25ミリ連装機銃への換装工事が行われた。工事期間の短さから、二番砲塔の撤去については実施されなかったと推定されている。工事終了後、雷は1944年(昭和19年)1月25日に館山を出撃し、トラックに進出する特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,366トン)並びに2隻の特設運送船、愛国丸(大阪商船、10,437トン)と靖国丸(日本郵船、11,933トン)を護衛。1月31日にアメリカ潜水艦トリガーの雷撃で靖国丸が沈没したが、翌2月1日にトラックに到着した。 マリアナ諸島防衛強化のための松輸送にも従事。3月22日、船団指揮官伊集院松治少将(第一特設船団司令官)の指揮下、護衛艦(軽巡洋艦夕張(旗艦)、駆逐艦雷、玉波、水雷艇鴻、海防艦平戸、能美、第48号、第51号および第54号駆潜艇)、加入船舶12隻として東京湾を出撃。パラオ行きの船団(玉波・平戸・能美・辰浦丸・乾安丸・富津丸・長白山丸・南洋丸・早埼)を分離したあと、3月30日に損害なくサイパン島に到着した。
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1943年 - 1944年
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「ベロー・ウッド (空母)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説
ベロー・ウッドは初陣でベーカー島(9月1日)攻撃に参加した後、タラワ(9月18日)、ウェーク島(10月5日、6日)への攻撃に参加、その後第50任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)に加わり、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦(1943年11月19日 - 12月4日)に参加した。 1944年から第58任務部隊(マーク・ミッチャー少将)に所属し、クェゼリン環礁、マジュロ、マーシャル諸島攻撃(1944年1月29日 - 2月3日)、トラック島攻撃(2月16日、17日)、サイパン - テニアン島 - ロタ島 - グアム攻撃(2月21日、22日)、パラオ - ヤップ - ウルシー環礁 - ウォレアイ環礁攻撃(3月30日 - 4月1日)、ホーランディア、ニューギニア上陸支援のためのサワル、ワクデ島攻撃(4月22日 - 24日)トラック島 - サタワン環礁 - ポナペ攻撃(4月29日 - 5月1日)、サイパン攻撃(6月11日 - 24日)、第一次小笠原諸島攻撃(6月15日、16日)、マリアナ沖海戦(6月19日、20日)、第二次小笠原諸島攻撃(6月24日)に参加した。マリアナ沖海戦で、ベロー・ウッドの艦載機は空母飛鷹を撃沈している。 真珠湾でのオーバーホール(1944年6月29日 - 7月31日)の後、ベロー・ウッドは再び第58任務部隊に加わり、グアム攻略の最終局面に(8月2日 - 10日)参加する。続いて第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に加わり、ペリリュー島攻略支援の南パラオ攻撃(9月6日 - 10月14日)、フィリピン諸島攻撃(9月9日 - 24日)、モロタイ島上陸(9月15日)、沖縄空襲(10月10日)、北ルソンおよび台湾攻撃(10月11日 - 14日)、ルソン攻撃(10月15日、17日 - 19日)を経て、エンガノ岬沖海戦(10月24日 - 26日)にはラルフ・F・デヴィソン少将の第38.4任務群の一艦として参加した。 10月30日、第38.4任務群はレイテ湾東方をパトロールし、レイテ島の戦いを緊急的に洋上から支援しているところだった。一方、この日の13時30分、神風特別攻撃隊葉桜隊の6機がセブを出撃し、スルアン島沖にいた第38.4任務群に迫っていた。1時間ばかりの後、葉桜隊は第38.4任務群を発見。太陽を背に次々と突入してきた。1機目と2機目を撃墜するが、続く3機が空母フランクリン(Franklin, CV-13)に突入。1機が命中し2機が至近に落下、フランクリンは大火災を発生した。6機目もフランクリンに突入するかに見えたが、進路を変えベロー・ウッドに突進してきた。この特攻機は飛行甲板後部に激突したが、この時のベロー・ウッドの飛行甲板上は、運悪く発進準備中の飛行機で埋め尽くされていた。突入時の爆発と撒き散らされたガソリンによって火災を引き起こし、飛行機に装備するため用意してあった爆弾も次々と爆発した。ベロー・ウッドの乗組員は92名が死亡または行方不明となったが、決死の消火活動と爆発物投棄を行った結果、最悪の状態から脱することが出来た。また、ベロー・ウッドの艦載機のうち、12機が焼失して14機が使い物にならなくなった。ベロー・ウッドはフランクリンと共にウルシー環礁に後退し、ウルシーでの応急修理(11月2日 - 11日)の後、カリフォルニア州ハンターズ・ポイントに向けて出港する。ハンターズ・ポイントには11月29日に到着し、修理及びオーバーホールを行った。 ベロー・ウッドとフランクリンに対する神風攻撃は、前日10月29日における空母イントレピッド(USS Intrepid, CV-11)に対する初桜隊の攻撃と合わせ、高速機動部隊に対する初めての神風攻撃となった。また、ベロー・ウッドとフランクリンの戦線離脱で第38.4任務群の航空戦力は半減し)、第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将は神風対策も兼ね、第38任務部隊の編成をこれまで4個任務群だったのを臨時に3個任務群に編成し直し、11月11日に予定されていた東京空襲を中止した。
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1943年 - 1944年
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「カウペンス (空母)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説
カウペンスは第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)と共に10月5日、6日にウェーキ島を攻撃。その後真珠湾に帰投し、マーシャル諸島攻略の準備に入る。11月10日に配属変更となり19日と24日にミリ環礁、マキン環礁を攻撃、12月4日にはクェゼリン環礁、ウォッジェ環礁を攻撃。9日に帰投する。 1944年に入り、カウペンスは第58任務部隊(マーク・ミッチャー少将)に加わり、1月16日に真珠湾を出港、マーシャル諸島攻略に入る。カウペンスの艦載機は、1月31日に行われる上陸に先立ってクェゼリンおよびエニウェトク環礁への攻撃を行った。任務部隊は無血占領したマジュロを拠点とし、2月16日、17日にトラック島への攻撃を行い、21日、22日にはマリアナ諸島へ攻撃を行っている。3月4日に真珠湾に入港した後、第58任務部隊は再びマジュロからカロリン諸島への攻撃を行い、その後3月30日から4月1日にかけてパラオ、ヤップ島、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁を攻撃。カウペンスは艦載機を対空、対潜哨戒任務に提供した。4月21日から28日まで行われたホーランディア攻撃の間、カウペンスはニューギニア沖での任務を行い、その後4月29日と5月1日のトラック島、サタワン環礁、ポナペへの攻撃に参加、5月14日に訓練のためマジュロに帰還する。 1944年6月6日から7月10日までカウペンスはマリアナ海域で作戦活動を行う。艦載機はサイパン島の地上部隊の支援を行い、硫黄島、パガン島、ロタ島、グアム攻撃の支援を行った。6月19日、20日のマリアナ沖海戦では多数の敵機を撃墜している。その真珠湾で短期間のオーバーホールを受け、8月17日にエニウェトクで第58任務部隊と再合流する。29日にカウペンスはパラオ攻略の事前攻撃を行った後、9月13日から17日までは第38任務部隊を一時離れてモロタイ島上陸支援部隊に加わり、任務部隊に再合流すると21日から24日までルソン島に対する攻撃、偵察任務に従事する。 任務部隊は10月10日から14日まで沖縄及び台湾の日本軍基地攻撃を行い、10月12日からの台湾沖航空戦で重巡洋艦キャンベラおよび軽巡洋艦ヒューストンが雷撃を受け大破し、曳航されてウルシーに避退することとなった。この際、カウペンスは艦載機による航空支援を行った。ハルゼー大将は、傍受した日本側のラジオから大勝利を連呼する放送が流れ、日本側が「アメリカ艦隊全滅」と信じきっていると感じた。ハルゼー大将は罠を仕掛けることとし、ヒューストンとキャンベラを中心に囮部隊である第30.3任務群を臨時編成し、これを「敗残アメリカ艦隊」に仕立て上げ、その「敗残艦隊」から適度に離れた場所に2つの任務群を置き、罠に引っかかってお出ましになった日本のあらゆる部隊を一網打尽にしようと企てたが上手く行かず、航空部隊がヒューストンにもう1本の魚雷を命中させた。 カウペンスが属する第38.1任務群(ジョン・S・マケイン・シニア中将)は補給のためウルシーへの帰投途中、日本艦隊がレイテ島へ接近する報告を受け、カウペンスは任務群ともども反転して戦場に急行、スリガオ海峡海戦で残存日本艦隊を追撃する僚艦のため艦載機による偵察を行った。フィリピン海域での戦闘では11月から12月にわたってルソン島へ艦載機による攻撃を繰り返している。12月18日、任務部隊はコブラ台風に遭遇。カウペンスは格納庫甲板で火災が発生し、乗員の一人といくつかの艦載機、設備を失うが、熟練した乗組員による対処で火災は約2時間で消し止められ、大きな損害を被ることはなかった。カウペンスは被害を修復するため、12月21日にウルシーに帰投した。
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1943年-1944年
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「フレデリック・ジョン・ウォーカー」の記事における「1943年-1944年」の解説
1943年6月、ウォーカーは自らの駆逐艦スターリングによって、2隻のUボートを沈没させる功を奏する。6月2日、U-202を爆雷及び砲撃により、6月24日、U-119を対潜爆雷及び激突により沈めたのである。同日、同部隊は、U-449を沈めている。ウォーカーが編み出した最も成功した戦術の一つとして、クリーピング攻撃(英語版)があげられる。攻撃中Uボートとの接敵を保つため2隻の艦船が共に任務にあたる。これを改善したものとして、爆雷弾幕攻撃(英語版)がある。これは3隻以上のスループが直線状に並び、対潜爆雷を発射し、集中攻撃を与え、歩兵前方を大砲にて弾幕砲撃する戦法に類似した方法により攻撃する。7月30日、ウォーカーの部隊はビスケー湾を浮上航行中の3隻のUボートに遭遇する。 内2隻はミルヒ・クー(乳牛)と呼ばれた補給用潜水艦XIV型であった。彼が全艦追撃(英語版)の信号を掲げると、彼の部隊はそれを攻撃し、損害を与え、その潜水を防いだ。XIV型U-462、IX/C40型U-504の2隻はウォーカーの部隊により、XIV型U-461はオーストラリア空軍ショート サンダーランド飛行艇により沈められた。 ウォーカーがリヴァプールへ帰還すると、潜水艦パルティアン(HMS Parthian, N75)が地中海にて1943年8月に喪失、彼の息子であったティモシーが同時に戦死したことを知らされた。 1943年9月14日、バス勲章 (CB)を受章する。"大西洋の戦いにおける対潜戦において、駆逐艦スターリングの指揮をした際のリーダーシップ、そして勇気"("for leadership and daring in command of battleship in successful actions against submarines in the Atlantic." )がその理由である。 1943年11月6日、ウォーカーの部隊はU-226とU-842を沈める。1944年前半、ウォーカーの部隊はその効率の良さを1回の哨戒中に6隻のUボートを沈めることによって示す。1944年1月31日、ウォーカーの部隊はU-592を沈め、その年初めての敵艦の撃沈となった。2月9日、彼の部隊はU-762、U-238及びU-734を一交戦中に沈める。さらに、2月11日にU-424を、2月19日にU-264を沈める。1944年2月20日、ウォーカーの部隊の1隻であるウッドペッカー(HMS Woodpecker, U08)が魚雷攻撃を受け、その7日後、本国への曳航中に沈没し、船員は全員救出された。彼らは、市民と海軍本部からの興奮と歓喜とともに、彼らのリヴァプールの基地へ帰還した。アルバート・ヴィクター・アレクサンダー(英語版)第一海軍卿はウォーカーたちを歓迎した。ウォーカーは大佐に昇級し、DSOに2個目となる線章を受勲する。 3月、ウォーカーの部隊は、レンドリース法によりソ連海軍へ貸与されるためにロシアへと向かうアメリカ海軍軽巡洋艦ミルウォーキーの護衛にあたった。その往路にて、ウォーカーの部隊は2隻のUボートを撃沈し、復路にて3隻目を撃沈させた。ウォーカーの最後の任務は、D-デイにてフランスへ上陸せんとする連合国船団をUボートから守ることであった。その2週間、彼は指揮官として成功した。ウォーカーによる船団は1隻のUボートも見逃さず、多くの敵艦を沈没ないしは破損させた。ウォカー隷下の、この一致協力した遂行の間、彼の任務への献身はすさまじいものであった。休む間もない任務を遂行し、その激務は彼の死へと大きくつながる。1944年6月13日、そのDSO(Distinguished Service Order)に対し、3個目の線章を、1944年6月20日、再びMIDを賜与される。
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