1943年~1944年とは? わかりやすく解説

1943年~1944年(地中海)

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ヴァルカン (工作艦)」の記事における「1943年~1944年(地中海)」の解説

ヴァルカン6月8日から22日までノーフォーク修理行った後、地中海移動し6月27日アルジェリアオラン到着した6月終わりにはアルジェ移ったが、ヴァルカンはそこで炎上するイギリス弾薬輸送船アローに対して消火救援要員送ったヴァルカン水兵3名がボート炎上するアロー接近すると、舷側外板切断して下甲板閉じ込められイギリス水兵たちを助け出した。この勇敢かつ機知に富んだ行動により、3人の水兵イギリス政府およびアメリカ海軍、アメリカ海兵隊から勲章授与された。 ヴァルカン1944年夏まで北アフリカ沿岸行動し同年8月から9月まで南フランスの上作戦であるドラグーン作戦支援する作戦参加する艦艇舟艇対す修理活動功績により、ヴァルカン従軍星章英語版)1個を受章した

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1943年 - 1944年

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サンフランシスコ (重巡洋艦)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説

1943年昭和18年2月26日戦列復帰したサンフランシスコは PW2211船団護衛し南太平洋向かった3月20日ヌメア到着した後、5日後にエファテ島向かい4月中に真珠湾帰投した。サンフランシスコアリューシャン方面の戦い投入されることとなり、北太平洋部隊第16任務部隊合流月末アラスカ到着すると、サンフランシスコアダック島拠点行動し5月アッツ島の戦いおよび7月キスカ島奪還では護衛海上封鎖対地砲撃おこなった。 「キスカ島撤退作戦」も参照 7月23日アメリカ軍カタリナ飛行艇アッツ島南西200海里地点で7隻の船をレーダー捕捉し艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将日本艦隊とみて直ち迎撃作戦移った。しかし、当時、この海域には日本艦船存在しておらず、これは全くの事実誤認であった7月26日濃霧の中で戦艦ミシシッピー (USS Mississippi, BB-41) のレーダー15海里地点エコー捕捉艦隊各艦からも同様の報告得たキンケイド直ちレーダー射撃開始させ、戦艦巡洋艦砲撃おこなった。約40分後、反応消失した。しかし、不思議なことにサンフランシスコレーダーにはこの戦い最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダー虚像による誤反応日本艦隊見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであったピップス戦い)。この際米軍消費した砲弾36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている。この誤認攻撃状況に関して、米艦隊打電した砲撃データ電文日本艦隊全て傍受しており、また平文打電されていたために「米軍同士討ちやっている」と日本軍思ったという。7月28日ケ号作戦実行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイド弾薬補給のため一時艦隊後退させる。この時、キンケイドキスカ島張り付けてあった哨戒用駆逐艦まで率いて後退してしまった。翌日周辺海域からアメリカ艦隊がいなくなっているとは知らずキスカ島撤収部隊第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)が突入しキスカ島から陸上部隊撤退させた。 7月30日日本軍守備隊撤退したとは知らず補給終わったアメリカ軍封鎖再開した8月15日サンフランシスコキスカ島の上作戦であるコテージ作戦参加し艦砲射撃などの支援行った9月中旬真珠湾帰投したサンフランシスコは、9月29日に第14.2.1任務群に加わりウェーク島攻撃向かった任務群は10月5日ウェーク島近海到着し日本軍守備隊射程圏内を航行した10月11日任務群は真珠湾帰投した。 次いでサンフランシスコガルヴァニック作戦参加しブタリタリ沖に到着した後、ベティオ島(英語版)に対す事前砲撃参加しブタリタリ西方補給路を確保した11月26日サンフランシスコヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) 、レキシントン (USS Lexington, CV-16) 、カウペンス (USS Cowpens, CVL-25) 、5隻の巡洋艦および6隻の駆逐艦からなる第50.1任務群に加わりクェゼリン方面日本軍施設への攻撃向かった12月4日艦載機目標向かった後、正午前後から日本機の反撃始まった12時50分、サンフランシスコ左舷艦首方向から3機の雷撃機突入受けたが、そのうちの2機はサンフランシスコに対して機銃掃射行ったものの対空砲火撃墜され、残る1機もヨークタウンからの射撃撃墜された。機銃掃射により1名が戦死し22名が負傷した。日が落ちてから再び日本機の攻撃があり、レキシントン雷撃され損傷した任務群は北に西にと行動し12月5日1時30以降はレーダースクリーンから日本機が消えた翌日サンフランシスコ真珠湾向かった1944年1月22日サンフランシスコは第52任務部隊の一艦として再びマーシャル方面向かった1月29日任務部隊クェゼリンの戦い支援マロエラップ環礁日本軍施設対す攻撃行った攻撃クェゼリン向かい1月31日6時30分に作戦海域到着したサンフランシスコは、7時30分から環礁内のあらゆる目標向けて臨機応変発砲した。8時49分に一旦発砲中止し、9時に再開サンフランシスコ環礁内の島々に対して艦砲射撃行い、それは日没時まで続けられた。2月8日サンフランシスコマジュロ向かい第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)に合流した2月12日サンフランシスコは第58.2任務群の一艦としてマジュロ出撃4日後、第58任務部隊トラック島空襲行った2月16日から17日にかけての深夜イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) が魚雷命中により損傷サンフランシスコ後送されるイントレピッド護衛途中まであたった2月19日イントレピッドは2隻の駆逐艦とともに真珠湾回航され、サンフランシスコは他の艦船とともにマジュロ向かった2月25日サンフランシスコは第58.2任務とともに真珠湾向かった1ヵ月後の3月20日、第58.2任務群はマジュロ進出し3月22日パラオおよびカロリン諸島への攻撃出撃した。3月30日から4月1日にかけて艦載機パラオウォレアイ環礁攻撃しサンフランシスコ観測機救助活動活用した4月6日帰投し、一週間後に任務群はホーランジアの戦い支援出撃した。4月21日から28日まで第58.2任務群はホーランディア対す上陸作戦支援した後、4月29日トラック諸島再度攻撃サンフランシスコ4月30日に、他の8隻の巡洋艦とともにサタワン環礁への砲撃行った砲撃後は第58.2任務群に合流しマーシャル諸島向かったマジュロ帰投後、クェゼリン移動したサンフランシスコは、第53.15任務とともにサイパンの戦い参加するため、6月10日出撃した。6月14日から2日間、サンフランシスコテニアン島に対して砲撃行い一時第9巡洋戦隊指揮下に入って6月16日グアム砲撃した日本艦隊サイパン向かいつつあるという報に接しサンフランシスコサイパン島沖に戻った6月17日補給行ったサンフランシスコは、2日後マリアナ沖海戦参加10時46分頃から攻撃受けたものの、日本艦載機対空砲火上空援護戦闘機により部隊から30キロ以内立ち入ることすら難しかった1146分、サンフランシスコ重巡インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) とともに対空射撃行い正午までには静けさ戻った6月20日サンフランシスコ逃げ日本艦隊追撃加わったが、翌日までにはサイパン島沖に戻って援護射撃再開した7月8日サンフランシスコは再びグアム沖に現れアガットハガニアに対して砲撃行った7月12日サイパン島沖で補給行い7月18日にはグアム沖に戻った7月18日から20日にかけてはアガットとファチ岬沖で水中破壊チーム支援行い日本軍陣地整えさせる暇も与えなかった。7月21日にアガットビーチに陸上部隊上陸させ、7月24日にはオロテ岬(英語版に対して砲撃行った7月30日作戦海域離れエニウェトク環礁真珠湾経由しサンフランシスコ向かった8月16日到着した後、オーバーホール入った10月31日オーバーホール終わったサンフランシスコは西に向かい11月21日ウルシー環礁到着し、第6巡洋戦隊旗艦となった12月10日サンフランシスコは第38.1任務とともにウルシー出撃し、フィリピン攻撃向かった12月14日から15日にかけて、艦載機フィリピン各地空襲し、サンフランシスコ艦載機対潜哨戒救助任務あたった12月16日第38任務部隊ジョン・S・マケイン中将)は第30.17任務群と合流して洋上補給を行う予定だったが、コブラ台風遭遇し給油活動中止その後2日間にわたって任務部隊台風翻弄された。12月19日サンフランシスコ台風沈没した3隻の駆逐艦生存者捜索あたった第38任務部隊は翌12月20日フィリピンへの攻撃再開すべく西に向かった空襲できる状況になく、12月24日ウルシー帰投した。

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1943年 - 1944年

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電 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説

1943年昭和18年1月30日、「電」は北方部隊編入され挺身輸送部隊属した2月6日、「電」は「多摩とともに横須賀発。2月9日大湊着。同日、「君川丸とともに幌筵向かい2月12日着。2隻は即日出港。「君川丸」はアッツ島への搭載機輸送行い2月15日に2隻は柏原湾に帰着した2月18日第十船団として第三十二防空隊第三設営隊基幹員および飛行場資材を運ぶ「粟田丸」を軽巡洋艦阿武隈とともに護衛して幌筵からキスカ島向けて出港このころアッツ島方面にはアメリカ艦艇出現し2月20日にはアッツ島向かっていた「あかがね丸」が撃沈されたが、「粟田丸」による輸送成功した。「電」と「阿武隈」は2月21日に「粟田丸」をキスカ島へ向かわせ、2月25日幌筵帰着したアメリカ水上部隊による「あかがね丸」撃沈により北方部隊はその大半輸送作戦投入することとなり、第一水雷戦隊駆逐艦初春」、「響」欠)は護衛部となった3月7日水上機飛行場資材人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦那智」など巡洋艦4隻は3月7日幌筵海峡より出撃3月10日揚陸成功し3月13日全部幌筵海峡帰投した。 3月23日には、北方部隊主力と共に特設巡洋艦浅香丸(日本郵船、7,398トン)と陸軍輸送船崎戸丸日本郵船、9,245トン)を護衛して幌筵島出撃してキスカ島に向かう。北方部隊3月27日に「ソックチャールズ・マクモリス少将アメリカ艦隊遭遇してアッツ島沖海戦生起する第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将旗艦那智)が指揮する日本艦隊は、主隊(第二十一戦隊那智摩耶多摩》、第21駆逐隊若葉初霜》)、護衛部隊(第一水雷戦隊阿武隈》、第6駆逐隊、電》)、「ロ」船団浅香丸、崎戸丸)という、重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦4隻だった。一方チャールズ・マクモリス少将指揮下の米艦隊重巡2・軽巡1・駆逐艦4だった。電は海戦直前浅香丸、崎戸丸護衛して北西方向に針路変え海戦自体には参加しなかった。電に戦果はなかったが、那智摩耶多摩阿武隈若葉初霜戦闘稚拙そのものだった。電側は戦闘参加した第五艦隊各艦の消極姿勢強く非難している。 その後北方海域離れて4月16日横須賀帰投し、30日まで整備が行われた。この間4月1日第六駆逐隊新編成第十一水戦隊木村進少将)に編入される4月15日以降内南洋部隊転属して日本本土トラック間の船団護衛任務従事することとなった5月5日トラック進出する練習巡洋艦香取護衛内南洋部隊での初任務であり、以降12月までの間、ローテーション組んで横須賀トラック間の船団護衛任務で7往復平均して1か月あたり1往復4分の1回のペース船団護衛任務明け暮れた任務合間を縫って10月6日から24日まで横須賀海軍工廠修理を受ける。11月入って護衛任務戻り12月には陸軍部隊トラックからクサイ島まで輸送12月27日に響とともに空母飛鷹龍鳳護衛してトラック出港し、年改まった1944年昭和19年1月2日に呉に到着した1944年1月6日、電は響、薄雲とともにマニラへの航空機輸送任務を行う空母海鷹神鷹護衛のため佐伯出港するが、神鷹機関不調により輸送作戦一時中止となった12日神鷹薄雲外して再度佐伯出撃し、1月16日マニラ到着以後シンガポールタラカン島パラオ経て2月11日トラック到着し2日後13日トラック出港して19日に呉に帰投した。2月23日からは空母千代田による輸送作戦護衛にあたり特設運送船給油)「国洋丸」(国洋汽船10,026トン)を加えて3月1日横須賀発ちサイパン島グアムパラオバリクパパン寄港。その途中3月18日には、タウィタウィ近海アメリカ潜水艦ガンネル発見されるが、ガンネルは9,000ヤードより距離を縮めることができず、電は響と共同16発の爆雷投下してガンネル追い払ったバリクパパン燃料補給ののち、東進してパラオに向かう途中3月22日に再びガンネル発見されるも、11,000ヤード離れて15ノット航行されては、ガンネルにとっては手の尽くしようもなかった。3月27日パラオ出港して再度バリクパパン向かい給油ののちダバオ向かったその後4月4日ダバオ出港して4月10日に呉に帰投。響とともに呉海軍工廠4月10日から30日まで修理を行うが、この時に二番砲塔撤去したものと推定され25ミリ単装機銃2基が増備された。また、この修理までに25ミリ連装機銃2基の装備行われた修理中の4月13日姉妹艦アメリカ潜水艦によって撃沈され、第6駆逐隊は電、響の2隻となった

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1943年 - 1944年(昭和18年 - 昭和19年)

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雷 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年 - 1944年(昭和18年 - 昭和19年)」の解説

損傷修理1943年昭和18年1月28日終わり1月30日北方部隊編入の上那智護衛して2月3日横須賀出撃した。しかし不具合があり2月6日横須賀引き返したあと、2月20日まで再修理2月20日重巡洋艦摩耶とともに横須賀出港し大湊経由2月27日幌筵海峡到着2月20日アッツ島向かっていた「あかがね丸」がアメリカ水上艦艇撃沈されたことから北方部隊はその大半輸送作戦投入することとなり、第一水雷戦隊駆逐艦初春」、「響」欠)は護衛部となった3月7日水上機飛行場資材人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦那智」など巡洋艦4隻は3月7日幌筵海峡より出撃3月10日揚陸成功し3月13日全部幌筵海峡帰投した。 3月22日2度目アッツ島への輸送作戦那智羽黒等と輸送船2隻を護衛して幌筵島出撃するが、その途中3月27日アッツ島沖でアメリカ艦隊遭遇し交戦アッツ島沖海戦)。海戦主砲13撃っただけにとどまった幌筵島帰投後の3月30日、嵐のため抜錨作業中に幌筵海峡駆逐艦若葉前部右舷への接触事故おこして艦首圧し潰れる損傷こうむった大湊応急修理の後4月8日出港し途中不具合による大湊への反転挟んで4月11日横須賀帰港4月30日まで修理が行われた。 この間4月1日第六駆逐隊新編成第十一水戦隊木村進少将)に編入される4月15日以降内南洋部隊転属して日本本土トラック間の船団護衛任務従事することとなり、5月4日特設巡洋艦盤谷丸(大阪商船、5,351トン)と特務艦間宮護衛して佐伯出撃し、5月12日トラック到着トラック止まり間宮はここで分離し5月16日引き続き盤谷丸を護衛してトラック出撃ジャルート環礁に向かう。この途上5月20日午後にジャルート環礁ジャンボール水道付近にいたったところでアメリカ潜水艦ポラック発見されポラック雷撃により盤谷丸は被雷沈没した爆雷反撃行ったが、ポラック損傷与えただけで取り逃がした以降1944年昭和19年4月までの1年近くの間、船団護衛任務従事した任務合間を縫って1944年1月6日から13日の間に横須賀工事行い水中聴音儀と電波探知機逆探)の装備および艦橋前の13ミリ連装機銃25ミリ連装機銃への換装工事が行われた。工事期間の短さから、二番砲塔撤去については実施されなかったと推定されている。工事終了後1944年昭和19年1月25日館山出撃し、トラック進出する特設巡洋艦赤城丸日本郵船、7,366トン並びに2隻の特設運送船愛国丸(大阪商船10,437トン)と靖国丸日本郵船11,933トン)を護衛1月31日アメリカ潜水艦トリガー雷撃靖国丸沈没したが、翌2月1日トラック到着したマリアナ諸島防衛強化のための松輸送にも従事3月22日船団指揮官伊集院松治少将第一特設船団司令官)の指揮下、護衛艦軽巡洋艦夕張旗艦)、駆逐艦玉波水雷艇海防艦平戸能美、第48号、第51号および第54駆潜艇)、加入船舶12隻として東京湾出撃パラオ行き船団玉波平戸能美・辰浦丸・乾安丸・富津丸・長白山丸・南洋丸・早埼)を分離したあと、3月30日損害なくサイパン島到着した

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1943年 - 1944年

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ベロー・ウッド (空母)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説

ベロー・ウッド初陣ベーカー島9月1日攻撃参加した後、タラワ9月18日)、ウェーク島10月5日6日)への攻撃参加その後50任務部隊チャールズ・A・パウナル少将)に加わりギルバート諸島攻略ガルヴァニック作戦1943年11月19日 - 12月4日)に参加した1944年から第58任務部隊マーク・ミッチャー少将)に所属しクェゼリン環礁マジュロマーシャル諸島攻撃1944年1月29日 - 2月3日)、トラック島攻撃2月16日17日)、サイパン - テニアン島 - ロタ島 - グアム攻撃2月21日22日)、パラオ - ヤップ - ウルシー環礁 - ウォレアイ環礁攻撃3月30日 - 4月1日)、ホーランディアニューギニア上陸支援のためのサワルワクデ島攻撃4月22日 - 24日トラック島 - サタワン環礁 - ポナペ攻撃4月29日 - 5月1日)、サイパン攻撃6月11日 - 24日)、第一次小笠原諸島攻撃6月15日16日)、マリアナ沖海戦6月19日20日)、第二次小笠原諸島攻撃6月24日)に参加したマリアナ沖海戦で、ベロー・ウッド艦載機空母飛鷹撃沈している。 真珠湾でのオーバーホール1944年6月29日 - 7月31日)の後、ベロー・ウッドは再び第58任務部隊加わりグアム攻略最終局面に(8月2日 - 10日参加する続いて第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)に加わりペリリュー島攻略支援のパラオ攻撃9月6日 - 10月14日)、フィリピン諸島攻撃9月9日 - 24日)、モロタイ島上陸9月15日)、沖縄空襲10月10日)、北ルソンおよび台湾攻撃10月11日 - 14日)、ルソン攻撃10月15日17日 - 19日)を経てエンガノ岬沖海戦10月24日 - 26日)にはラルフ・F・デヴィソン少将の第38.4任務群の一艦として参加した10月30日、第38.4任務群はレイテ湾東方パトロールしレイテ島の戦いを緊急的に洋上から支援しているところだった。一方、この日の1330分、神風特別攻撃隊葉桜隊の6機がセブ出撃し、スルアン島沖にいた第38.4任務群に迫っていた。1時間ばかりの後、葉桜隊は第38.4任務群を発見太陽を背に次々と突入してきた。1機目と2機目を撃墜するが、続く3機が空母フランクリンFranklin, CV-13)に突入。1機が命中し2機が至近落下フランクリン大火災発生した。6機目もフランクリン突入するかに見えたが、進路変えベロー・ウッド突進してきた。この特攻機飛行甲板後部激突したが、この時のベロー・ウッド飛行甲板上は、運悪く発進準備中飛行機埋め尽くされていた。突入時の爆発撒き散らされガソリンによって火災引き起こし飛行機装備するため用意してあった爆弾次々と爆発したベロー・ウッド乗組員92名が死亡または行方不明となったが、決死消火活動爆発物投棄行った結果最悪の状態から脱することが出来たまた、ベロー・ウッド艦載機のうち、12機が焼失して14機が使い物にならなくなったベロー・ウッドフランクリンと共にウルシー環礁後退しウルシーでの応急修理11月2日 - 11日)の後、カリフォルニア州ハンターズ・ポイントに向けて出港する。ハンターズ・ポイントには11月29日到着し修理及びオーバーホール行ったベロー・ウッドフランクリン対す神風攻撃は、前日10月29日における空母イントレピッドUSS Intrepid, CV-11)に対す初桜隊の攻撃合わせ高速機部隊対す初めての神風攻撃となったまた、ベロー・ウッドフランクリン戦線離脱で第38.4任務群の航空戦力半減し)、第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将神風対策兼ね第38任務部隊編成これまで4個任務群だったのを臨時に3個任務群に編成し直し11月11日予定されていた東京空襲中止した

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1943年 - 1944年

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カウペンス (空母)」の記事における「1943年 - 1944年」の解説

カウペンスは第14任務部隊アルフレッド・E・モントゴメリー少将と共に10月5日6日ウェーキ島攻撃その後真珠湾帰投し、マーシャル諸島攻略準備に入る。11月10日配属変更となり19日24日ミリ環礁マキン環礁攻撃12月4日にはクェゼリン環礁ウォッジェ環礁攻撃9日帰投する。 1944年入りカウペンス第58任務部隊マーク・ミッチャー少将)に加わり1月16日真珠湾出港マーシャル諸島攻略に入る。カウペンス艦載機は、1月31日行われる上陸先立ってクェゼリンおよびエニウェトク環礁への攻撃行った任務部隊無血占領したマジュロ拠点とし、2月16日17日トラック島への攻撃行い21日22日にはマリアナ諸島攻撃行っている。3月4日真珠湾入港した後、第58任務部隊は再びマジュロからカロリン諸島への攻撃行いその後3月30日から4月1日にかけてパラオヤップ島ウルシー環礁ウォレアイ環礁攻撃カウペンス艦載機対空対潜哨戒任務提供した4月21日から28日まで行われたホーランディア攻撃の間、カウペンスニューギニア沖での任務行いその後4月29日5月1日トラック島サタワン環礁ポナペへの攻撃参加5月14日訓練のためマジュロ帰還する1944年6月6日から7月10日までカウペンスマリアナ海域作戦活動を行う。艦載機サイパン島地上部隊支援行い硫黄島パガン島ロタ島グアム攻撃支援行った6月19日20日マリアナ沖海戦では多数敵機撃墜している。その真珠湾短期間オーバーホールを受け、8月17日エニウェトク第58任務部隊と再合流する29日カウペンスパラオ攻略事前攻撃行った後、9月13日から17日までは第38任務部隊一時離れてモロタイ島上陸支援部隊加わり任務部隊に再合流する21日から24日までルソン島対す攻撃偵察任務従事する任務部隊10月10日から14日まで沖縄及び台湾日本軍基地攻撃行い10月12日からの台湾沖航空戦重巡洋艦キャンベラおよび軽巡洋艦ヒューストン雷撃を受け大破し曳航されてウルシー避退することとなったこの際カウペンス艦載機による航空支援行ったハルゼー大将は、傍受した日本側のラジオから大勝利連呼する放送流れ日本側が「アメリカ艦隊全滅」と信じきっていると感じたハルゼー大将は罠を仕掛けこととしヒューストンキャンベラ中心に部隊である第30.3任務群を臨時編成し、これを「敗残アメリカ艦隊」に仕立て上げ、その「敗残艦隊」から適度に離れた場所に2つ任務群を置き、罠に引っかかってお出ましになった日本あらゆる部隊一網打尽にしようと企てた上手く行かず航空部隊ヒューストンにもう1本の魚雷命中させた。 カウペンス属する第38.1任務群(ジョン・S・マケイン・シニア中将)は補給のためウルシーへの帰投途中日本艦隊レイテ島接近する報告を受け、カウペンス任務ともども反転して戦場急行スリガオ海峡海戦残存日本艦隊追撃する僚艦のため艦載機による偵察行ったフィリピン海域での戦闘では11月から12月わたってルソン島艦載機による攻撃繰り返している。12月18日任務部隊コブラ台風遭遇カウペンス格納庫甲板火災発生し乗員一人いくつかの艦載機設備を失うが、熟練した乗組員による対処火災は約2時間消し止められ大きな損害を被ることはなかった。カウペンス被害修復するため、12月21日ウルシー帰投した。

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1943年-1944年

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フレデリック・ジョン・ウォーカー」の記事における「1943年-1944年」の解説

1943年6月ウォーカーは自らの駆逐艦スターリングによって、2隻のUボート沈没させる功を奏する6月2日、U-202を爆雷及び砲撃により、6月24日、U-119を対潜爆雷及び激突により沈めたのである同日、同部隊は、U-449を沈めている。ウォーカー編み出した最も成功した戦術一つとしてクリーピング攻撃英語版)があげられる攻撃Uボートとの接敵を保つため2隻の艦船が共に任務にあたる。これを改善したものとして、爆雷弾幕攻撃英語版)がある。これは3隻以上のスループ直線状に並び対潜爆雷発射し集中攻撃与え歩兵前方大砲にて弾幕砲撃する戦法類似した方法により攻撃する7月30日ウォーカー部隊ビスケー湾浮上航行中の3隻のUボート遭遇する。 内2隻はミルヒ・クー(乳牛)と呼ばれた補給潜水艦XIVであった。彼が全艦追撃英語版)の信号掲げると、彼の部隊はそれを攻撃し損害与え、その潜水防いだXIV型U-462、IX/C40型U-504の2隻はウォーカー部隊により、XIV型U-461はオーストラリア空軍ショート サンダーランド飛行艇により沈められた。 ウォーカーリヴァプール帰還すると、潜水艦パルティアン(HMS Parthian, N75)が地中海にて1943年8月喪失彼の息子であったティモシー同時に戦死したことを知らされた。 1943年9月14日バス勲章 (CB)を受章する。"大西洋の戦いにおける対潜戦において、駆逐艦スターリング指揮をした際のリーダーシップ、そして勇気"("for leadership and daring in command of battleship in successful actions against submarines in the Atlantic." )がその理由である。 1943年11月6日ウォーカー部隊はU-226とU-842を沈める。1944年前半ウォーカー部隊はその効率良さ1回哨戒中に6隻のUボート沈めることによって示す。1944年1月31日ウォーカー部隊はU-592を沈め、その年初めての敵艦撃沈となった2月9日彼の部隊はU-762、U-238及びU-734を一交戦中に沈める。さらに、2月11日にU-424を、2月19日にU-264を沈める。1944年2月20日ウォーカー部隊の1隻であるウッドペッカー(HMS Woodpecker, U08)が魚雷攻撃を受け、その7日後、本国への曳航中に沈没し船員全員救出された。彼らは、市民海軍本部からの興奮歓喜とともに、彼らのリヴァプール基地帰還した。アルバート・ヴィクター・アレクサンダー(英語版第一海軍卿ウォーカーたちを歓迎したウォーカー大佐昇級しDSOに2個目となる線章を受勲する。 3月ウォーカー部隊は、レンドリース法によりソ連海軍貸与されるためにロシアへと向かうアメリカ海軍軽巡洋艦ミルウォーキー護衛あたった。その往路にて、ウォーカー部隊は2隻のUボート撃沈し復路にて3隻目を撃沈させた。ウォーカー最後の任務は、D-デイにてフランスへ上陸せんとする連合国船団Uボートから守ることであったその2週間、彼は指揮官として成功したウォーカーによる船団は1隻のUボートも見逃さず多く敵艦沈没ないしは破損させた。ウォカー隷下の、この一致協力した遂行の間、彼の任務への献身すさまじいものであった。休む間もない任務遂行し、その激務彼の死へと大きくつながる。1944年6月13日、そのDSO(Distinguished Service Order)に対し、3個目の線章を、1944年6月20日、再びMIDを賜与される。

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