ロシアへ
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「カッテリーノ・カヴォス」の記事における「ロシアへ」の解説
20代前半に、アスタリティというイタリア・オペラ一座に指揮者として加わり、1797年に一座とともにサンクトペテルブルクに旅する。 一座はほどなく解散したが、カヴォスはサンクトペテルブルクに魅せられてこの地に留まり、ロシアの帝室劇場の一員としてフランス・オペラ一座のオペラ・ヴォードヴィルのための作曲を手がけるようになる。 1803年、ロシア皇帝アレクサンドル1世によってカヴォスはボリショイ・カーメンヌイ劇場(石の大劇場)のイタリア・オペラ及びロシア・オペラの楽長に任命される。 同年、ステパン・ダヴィドフとともに『レスタ、ドニエプルのルサールカ』四部作(1803年 - 1807年)を加筆し、カヴォスはその第2部を担当した。 また、聖カタリーナ学校や、後にスモルヌイ修道院(en:Smolny Convent)で教授を務めた。 1805年からオリジナルの舞台作品の作曲を始め、オペラ『見えない王子』(1805年)、同『勇士イリヤー』(1807年)、バレエ『西風(ゼピュロス)とフローラ』(1808年)、オペラ『イヴァン・スサーニン』(1815年)、同『火の鳥』(1822年)などを完成させた。 1836年11月27日、グリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』がボリショイ・カーメンヌイ劇場において初演された際には、カヴォスが指揮者を務めた。 カヴォスはまたルイジ・ケルビーニやエティエンヌ=ニコラ・メユール、カール・マリア・フォン・ウェーバーなどのオペラ作品をロシアに紹介した。 カヴォスはロシアで40年以上過ごし、サンクトペテルブルクで没した。
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ロシアへ
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「アンナ・レオポルドヴナ」の記事における「ロシアへ」の解説
1722年、両親の不仲から、母とともにロシアへ渡る。1733年、ロシア正教に改宗、すなわちアンナ女帝の後継者となる可能性が高くなる。改宗とともに、名をアンナ・レオポルドヴナと改める。 女帝の寵臣エルンスト・ビロンは、彼女を自分の息子と結婚させようとしたが失敗した。1739年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の公子アントン・ウルリヒと結婚する。翌1740年8月に長男イヴァンを出産した。死期の近いアンナ女帝は、すぐさまこの新生児を後継者に指名した。自ら帝位を継ぐつもりだったアンナ・レオポルドヴナは、この決定に落胆したという。 1740年10月アンナ女帝が崩御し、生後2か月のイヴァンが即位するが、摂政に指名されたビロンはまもなく失脚した。これにより母后のアンナ・レオポルドヴナが、大公女の称号を得て摂政を引き継いだ。ピョートル大帝の娘で軍隊から熱烈に支持されるエリザヴェータを危険視していたアンナ・レオポルドヴナは、1741年11月にエリザヴェータを呼び出し忠誠を誓わせた。 ところが11月25日、エリザヴェータは自分を慕う近衛軍に命じてクーデターを実行。摂政アンナ・レオポルドヴナをはじめ政府要人を逮捕させ、イヴァン6世から帝位を簒奪した。
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ロシアへ
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指名手配犯となったプティパは、1847年5月、父ジャン=アントワーヌと共にロシアのサンクトペテルブルクへ渡る。当時のロシア宮廷は、ヨーロッパ各地から優れた芸術家を招いており、マリウスはダンサー兼バレエマスター、ジャン=アントワーヌは舞踊学校の教師の職を得ることになった。なお、ジャン=アントワーヌが1855年に没した後、教師の仕事は息子のマリウスが引き継いだ。 1847年9月、プティパのサンクトペテルブルクでの初仕事にあたる『パキータ』ロシア初演が行われた。本作は前年にパリに初演された作品であり、プティパは主役のリュシアンと、ジプシーの群の長の二役を演じたほか、父と共に演出にも携わった。 翌1848年、プティパと同じくフランスから招かれたジュール・ペローが、帝室劇場の首席バレエマスターに就任した。ペローの下で、プティパは振付の機会をほとんど与えられなかったため、しばらくはダンサーとしての仕事に専念せざるをえなかった。しかし、振付への意欲を持ち続けていたプティパは、ペローの助手を務めながら、兄リュシアンを通じてパリの新作バレエの情報を収集するなど、研鑽を積んだ。1855年、プティパは最初の重要な作品である『グラナダの星(英語版)』を発表した。 1859年、ペローに代わってフランスから招聘されたアルチュール・サン=レオンが首席バレエマスターに就任した。サン=レオンはヨーロッパ各地を回る多忙な生活を送っていたこともあり、前任のペローとは対照的に、助手のプティパが振付を行うことに寛容であった。プティパの出世作となったのは、1862年に初演された『ファラオの娘(英語版)』である。本作は、ダンサーのカロリーナ・ロザーティ(英語版)の引退記念として、初演の2ヶ月前に急遽制作が決まったが、プティパはこれを引き受け、わずか6週間で3幕9場の大作バレエを完成させた。この作品の成功を機に、プティパは第二バレエマスターに任命された。本作でプティパは主役のタオールを演じたが、ダンサーとしての仕事はこれが最後であり、以後は振付に専念するようになった。
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