ロシアへの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:22 UTC 版)
「セルゲイ・プロコフィエフ」の記事における「ロシアへの帰国」の解説
4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ(英語版)の中央児童劇場(英語版)のために作曲された。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された。プロコフィエフはさらに巨大な『十月革命20周年記念のためのカンタータ』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった。 新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、セルゲイ・エイゼンシュテインと歴史叙事詩による映画『アレクサンドル・ネフスキー』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判をメゾソプラノ、合唱と管弦楽のためのカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『セミョーン・カトコ』を書き上げる。これはフセヴォロド・メイエルホリドの演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日にスターリン秘密警察組織であった内務人民委員部に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『スターリンへの祝詞』 作品85を作曲している。 1939年の暮れ、今日では「戦争ソナタ」として広く知られるピアノソナタ第6番、第7番、第8番が作曲された。初演はそれぞれ、第6番がプロコフィエフ自身によって1940年4月8日に、第7番がスヴャトスラフ・リヒテルによって1943年1月18日にモスクワで、第8番がエミール・ギレリスによって1944年12月30日にモスクワで行われた。その後はとりわけリヒテルがこれらの作品を擁護した。伝記作家のダニエル・ヤッフェ(Daniel Jaffé)はプロコフィエフが「無理をして至福のスターリンを喜ばしく喚起させる楽曲を作ったが、自分がその役割を演じていたのだということ」そして、後の3つのソナタでは「自らの真の心情を表現したのだと人々に信じてもらいかった」のであろうと論じている。その証拠として、ヤッフェはピアノソナタ第7番の中間楽章でロベルト・シューマンの『リーダークライス』から「悲しみ」(Wehmut)の主題が引用されていることを挙げている。その歌詞は次のような内容である。「私は時に嬉しいかのように歌い、人知れず涙を流すことで心を解き放っている。ナイチンゲールは(中略)牢の深みから脱することを切に願って歌をさえずる(中略)人々は喜び、その痛み、歌に込められた深い悲しみを知ることはない。」皮肉にも(彼の引喩に気づく者はなかったとみられ)、第7番のソナタはスターリン賞の第2席、第8番は第1席を獲得した。 その間、ようやく1940年1月11日になって『ロメオとジュリエット』がレオニード・ラヴロフスキー(英語版)の振付けによってキーロフ・バレエで上演を迎えた。居合わせた者が皆驚いたことに、踊り手たちは楽曲のシンコペーションのリズムへの対処に苦労して公演をボイコットしかかっていたにもかかわらず、バレエはたちまち成功を収め、ソビエトの劇的バレエの頂点に君臨する偉業と看做されるようになったのであった。
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ロシアへの帰国
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「ヴャチェスラーフ・イヴァニコーフ」の記事における「ロシアへの帰国」の解説
2004年7月13日、1992年にモスクワのレストランで2人のトルコ人が殺害され後に騒動に発展した件に関して、殺人の容疑をかけられたため、ロシアに強制送還された。2005年7月18日に裁判官は容疑を認めず、同日に釈放された。警察官を含む証人たちは、被告を見た覚えはないと証言している。 タブロイド紙ソヴェルシェンノ・セクレトノ(Совершенно Секретно)の主力犯罪記者ラリサ・キスリンスカヤ(Лариса Кислинская)は、イヴァニコフが有力者とみなされるのは刑務所内だけのことであり、自由の身では敬意を得ることはないだろう、との見方を示した。
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